2018年07月17日 に初出の投稿

Last modified: 2018-07-17 18:13:19

僕が関大の千里山中央図書館に初めて入ったのは、実は修士に在籍していた友人のカードを借りてだった。僕は学部時代の大学では法学部に在籍していて、多くの大学では法学部に卒業論文を提出するという仕組みがなかったため、卒論の代わりとして(法学部ではあったが)「ヒュームの関係概念」という論文を書こうと思って、その資料を集めていたのである。その当時(1990年代初頭)、最近の論説になら頻繁に見られる「コピー説」はまだ知らなかったが、自分としてはヒュームが論じた「自然的関係」としての因果関係と「哲学的関係」としての因果関係をどう整合的に理解するかについて、図書館でコピーしたヒュームと同時代人の批評(殆ど古語と言っていい英語だ)から David Pears ら現代の論説に至るまで眺めて、学部生のレベルとしてやることはやったと思えるていどの自負はある。正直、実際に学位を得た「確率的因果性の概念」という論文に替えて、これをそのまま使っても修士論文として通用したと言えるくらいのものだと思う。

ともあれ、初めて中央図書館に入ったとき、1階の奥にある新着雑誌の棚を眺めているだけで、Analysis, Synthese, ERKENNTNIS, Studia Logica, Philosophy and Phenomenological Research, Dialectica, Philosophy of Science, International Studies in the Philosophy of Science, Phronesis, ISIS, The Journal of Philosophy, Mind, The Review of Metaphysics, Proceedings of the Aristotelian Society, The Journal of Symbolic Logic などなどと、分析哲学や科学哲学を専攻しようとする学生なら背中をゾクゾクするものが走るほど圧巻の雑誌類が揃っていて、これらを縦横に駆使して研究している竹尾先生を始めとする先輩たちに大きな期待をもって、その数年後に僕も関大の博士課程前期課程へ進学した。(実際、竹尾先生の学識にも巨大な影響を受けたが、先輩らもそれぞれの見識をもっていて、人として興味深く、また楽しい人々であった。面識がある人で関大にいまでも残っているのは教員になった現象学の三村さんだけだが、フッサリアーナの話よりもプロレスの話になると止まらなくなるという変な人柄は、いまでもゼミで学生を圧倒しているのだろう。)

さて、その当時は友人のカードを借りて書庫にも降りたことがあるため、専門雑誌の膨大な量のバックナンバーにも圧倒されたものだった。実際に自分が修士の正規の学生として図書館を利用するようになると、Mind や The Journal of Philosophy や Philosophy of Science のバックナンバーを丁寧に、それこそ朝から晩までかかって Mind ばかり読んでいても構わなくなったので、安心して図書館で色々な雑誌のバックナンバーを読み続けるようになった。そして、どういう傾向のトピックがどういう時代に集中して議論されていたのかという(もちろん論文が accept されて公刊されるまでのタイムラグを考慮しなくてはいけない)状況を掴むだけでも興味深く、とりわけ分析哲学の雑誌として主軸だった JP の目次を眺めていると、色々なサイドストーリーが折り重なっている歴史小説を読んでいるような気分にもなったのを覚えている。当然、目を付けた話題に関わる論文は片っ端からコピーしていったので、コピー代だけで一ヶ月に数万円にもなった。ちょうど第一パンの工場で深夜のバイトをしていた頃で、派遣社員だったから実入りがよく、週に3日ほど出て6時間くらい働くだけで一ヶ月の給料が15万円以上になったから、奨学金も合わせて親に渡すお金を差し引けば、残りの半分くらいがコピー代や洋書の代金となった。

細かい昔話を書いているうちに、どうして関大の図書館の話を書こうとしたのか、趣旨を忘れてしまった(笑)。いま関大に分析哲学や科学哲学のプロパーがいなくなって、あの膨大な本が死蔵されているのではないかという話は、もう既に書いた筈だ・・・思い出した。そう、僕がいまだにエキサイティングだと思っているのは、確か笠木雅史さんのブログ記事を読んだときに感じたような、一つのテーマに絞って大昔の雑誌論文から最近のカンファレンスやレクチャー動画に至るまで、詳細に論点を扱いながら詰将棋のように議論を組み立ててゆくという、「仕事」とか「実務」という言葉がぴったりするようなスタイルだ。ああしたスタイルで、たとえば induction とか empirical equivalence of theories とか Ramsification (or Ramsey-Lewis method) of theoretical terms とか conditionalization とか、そういった科学哲学のテーマについて一つずつ取り組んでみたいと修士の時代にも思ったものである。僕ができたのは、せいぜい probabilistic causation の一部の議論についてだけだったし、その手の概念史や論争史は単独で理解できるとは限らないということも、大雑把ながら色々な論点を学ぶうちに分かってきたのだが、それでも一つのテーマについて 100 年くらいの議論の蓄積を詳細にまとめて、そこから実質的な展開(「進展」と言えるかどうかはさておき)を少しでも成果として出したいと考えるのは、何も自然科学者だけの志向ではない。哲学には哲学なりに、概念や議論や定式化を更に広く深く厳密に押し広げたり精緻化するという成果もありうるのだ。

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