2018年06月28日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-28 22:26:20

いまさら繰り返して言うまでもないことだが、大学に教育のプロはいない。

大学の教員は無資格なので、殆どの大学教員は教員免許をもっていないし、取得する気もないだろう。そして教務課をはじめとする大学の事務方にも、教育制度のプロはいても、個々の分野について学生を指導できる人材はいない。そもそも大学の事務方の職員に「どうやって勉強すれば司法試験に合格できるのか」とか、「耽美系のメイクをしなければメイヤスーの研究はできないのか」とか、「ウィトゲンシュタインの研究をする場合のキャリアパスとして、60歳を迎えたら禅との関係を研究しなければならないのか」とか、そういう類の質問をしても無駄である。圏論を学ぶために代数系を学ぶ「必要」があるのかを大学の職員に尋ねたところで、彼らには答えるために必要な専門の素養もないし、答える権能が認められているとも思えない。

しかし、だからといって個々の研究者や教員に適切な指導力があるのかどうかを判断するために学生が参考に出来るなんらかの担保や保証や証拠があるのかと言えば、それは「ない」のである。自分の「指導」教官が、本当のところ教員としてどころか日本の成人としての社会常識をもっているかどうかも、怪しいと言わざるをえない。しばしば、小学校から高校にいたる学校教員は大学を出てからすぐに教師となるので、企業での職務経験がないばかりか、相手にしている父兄との人間関係に制約されているため、幅広い社会経験にも欠けていると言われるが、大学の教員はその極致と言ってよい。

しかし、大学教員のそういう事情は昔から色々な文学作品やエッセイやテレビドラマで描かれており、いまに始まったことでもなければ改善の見込みがあるわけでもないと多くの人が見做している。すると、父兄からすれば、大学は「教育」の場ではないということだ(だからといって、父兄の多くは自分の子供が大学で「学問研究」をしていると思っているわけでもあるまい)。

大学の価値が(企業からのスクリーニングにおいてシグナルになる以外の価値が)無い、あるいは元々から無いという事実がバレてしまったということに大きな原因があるとすれば、その一つは恐らく大学の教育が大きな成果を上げておらず、それゆえ社会から期待されてもいないという前提で人事のしくみが作られてしまっているということにもあろう。大学で量子物理や多様体論やディケンズや大阪市の歴史をどれほど勉強しようと、そういう意味で日本の大学生は大きな仕組みに組み込まれているのである。しかるに、若い人たちには、とりわけ一定の利害関係の中でだけ食べているような「スター哲学者」の書くものは取り扱い注意だと警告したいのである。こういう連中が暇潰しに書いているような文章など、どれほどプラトンやデカルトやレヴィナスらの名を挙げて難解そうなテーマが論じられていようと、しょせんは空語で埋められた「商品」でしかない。大学教員の本分は大学で自分が全ての責任を負って相手に向き合う講義や演習なのであって、そこでの評価は殆ど表には出てこないため、彼らの著作物に左右されてはいけない(アメリカによくある教員評価のサイトなど、実は評価する側がたいていはバカなので、真面目で意欲的な学生にとっては逆に役に立たないことが分かっている)。いわゆる「有名教授」でも、あちらこちらでパワハラやセクハラの事例は出てくるし、実際に出版社やマスコミとの人間関係だけでものを書いたり発言し始めると、しょせん世界規模では何の評価も受けていない無能のくせに(もちろん、海外の変わり者や、あるいは目ぼしい業績がなくてブルーオーシャンを開拓しようとする無能から着目される「日本の哲学者」もいるにはいるが)、外国語の素養や、修士レベルの数学の素養があるくらいで分析哲学だのフランス思想だのを教えている人々は、やはり何者かにでもなったつもりになれる。そして、それなりの出版社から著作集でも出してもらえるようになれば、なおさらだ(正直、個人の著作集が出ている哲学研究者で僕が読むに値すると思っているのは、藤澤令夫さんの他には一人もいないと思う)。

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