2018年06月28日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-28 19:53:42

間違いのとくしゅ・いっぱん相対性理論の本を7046円も出して買うな!モーツァルトのCDでも買うたほうがよっぽどまし。

まず、フランスの物理屋ブリユアン教授の「糞対性理論の再検討~ア◯ンシュタインの盲点」(ブルーバックス)を読んでみ。

間違いのとくしゅ・いっぱん相対性理論の本を7046円も出して買うな!

いかなる個人の文章にも著作権は適用されるので、異常な思想をもつ人物、あるいは端的に言って特定の精神疾患に侵されている人物の文章だからというだけで、安っぽい正義感を振りかざして無断の全文引用はすまい。

もちろん、義務教育ていどを終えた人であれば、このレビューの文章が日本語として異様であることは見て取れると思うし、そうあってもらいたいと期待している。もし、そもそも日本の近代教育(戦後教育とは限らない)の成果として、大昔から大多数の人々がこのような文章を直ちに異様だと理解できないのであれば、哲学者としてやるべきことは、勉強がどうのこうのとか、暇と退屈がどうのこうのとか、くだらないエロ漫画批評や都内の田舎学生を集めた熟議がどうとか、あるいはなめらかな社会がどうとか(そういや、この著者はその後の業績も新しい著書の話も聞かない)、それらの軽薄きわまりないタワゴトを大手の出版社からばら撒くことではない。少なくとも海外のジャーナルや大学出版社から論文や研究書を出せるレベルにない(というか、そういう場所で自らの成果を問う覚悟すらない)凡庸な哲学教員であれば、せめて自分の国の多くの人々に、凡人とはいかなるものかという現状をよく知ってもらうために何か貢献はした方がよかろう。

このアマゾンのカスタマーレビューは、もちろん内容として間違っているばかりか、日本語の文章としても日本の成人が手にするにはあまりにも稚拙で異常である。これを判断できる見識と、判断を当人に指摘するための(それなりに節度のある)文章表現と、節度ある指摘をしても後ろからナイフで刺されないていどの治安の確立に、哲学者も貢献する社会的な責任はある。それがいやなら、金持ちの道楽として読書にあけくれたり、Twitter から岩波新書にいたる数々の媒体に「哲学者っぽい見方で哲学っぽい話」を書いているだけの無能は、さっさと大学の職を辞して、事実上の哲学をやっている人々(それが数学科の教員だろうと国文学科の教員だろうと海洋生物学科の教員だろうと関係ない)に場所を譲るべきである。哲学とは、哲学科の教員だけのためのものではない。

*   *   *

続けて、別の観点からコメントを書いておく。子供の国語教育、あるいは大人への啓蒙でもいいと思うが、その一つの手法は、妥当とされる事例、つまりは良い文章を紹介することであろう。では、ここでリンクして紹介しているような、「異常な日本語表現」(当人がキチガイかどうかは、ひとまず保留してもいい)をたくさん紹介すれば、ベカラズ集のように機能するのだろうか、それとも逆に悪影響を受けるのだろうか。もちろん、ここでは「良い文章」と「悪い文章」の違いは所与の定義によって不問としているわけだが、この区別を前提にするかぎり、

・良い文章に倣う

・良い文章を避ける

・悪い文章に倣う

・悪い文章を避ける

という可能性は常にあり、「良い」文章として紹介されるからこそ、凡庸さを嫌う僕のような人間は逆に下らない文章の事例として避けるかもしれないし(笑)、「悪い」とされている文章が果たして本当に「悪い」のかどうか、敢えて悪い文章の事例を探して影響を受けてしまう恐れもあろう。そして、もし他人の文章に影響を受けること自体のリスクを避けたいなら、「良い」文章であれ「悪い」文章であれ、そもそも事例を出せなくなる。

もちろん、そんな教え方は現実から懸け離れている。良いも悪いも、みんな国語教育の場所から離れれば自由に他人の文章に接するものである。そこには、広告代理店のコピーライターどもの稚拙なキャッチフレーズが散らばっている。また、官僚が好んで書くようなパターナリスティックで優く、しかしウンコのように異臭が漂う「やさしい日本語」がある。あるいは、出版社の営業ふぜいが考えたような新刊書籍の案内文だとか、NHKのアナウンサーが喋るというカタチになっている奇怪な音声表現もあろう。つまりは、ここでシェアしたキチガイの文章だけをアマゾンに「報告」して削除すれば世の中が「良くなる」わけではないし、そういうことをやり続けたり、そういうことをあらゆる機会にやれば「良くなる」保証もない。

寧ろ、何度も言っているように、ヒトはホモ・サピエンスという有限な能力しかない生物として、ノベール賞を受けていようと東大から16歳で博士号を受けていようと、マッキンゼーやマイクロソフトの取締役をやっていようと、絶対に有限だという事実を前提にリテラシー教育なり、社会生活を営むうえでの処世術やサバイバルを考えなくてはならない。我々は、不老不死でもなければ、10光年先の宇宙空間の特定の地点に浮遊する物質が「ある」かどうかを予測できる能力などないし、一冊の本を1秒でザッピングして5秒で書写できる運動能力もない。フィールズ賞をもらった数学者であろうと、非常に簡単に表記できる計算(階乗の階乗の階乗・・・と再帰的な計算を要求するていどのこと)すら暗算できないわけであって、ヒトと呼ばれる生き物に、そんな能力など無いのだ。コンピュータや、アメリカ人が好きなクスリの類をどれほど人体に組み込んだり取り入れようと、絶対に越えられない原理的な処理の限界があるのは、高校程度の数学を学んだ覚えはある哲学教員なら、科学哲学や数学の哲学を専攻していなくても理解できよう。

しかるに、世の中に溢れている文章やサインの殆ど全ては識別のためであろうと意思疎通のためであろうと、記号なり表現として不十分であるという見識が先になくてはならず、そして三周遅れくらいの安っぽいフランスかぶれ(いまではフランスやドイツですら何割かの学生は英語で「分析系」の博士論文を書いているわけだが)が口走るような、結局は何の役にも立たない相対主義を徹底的に遠ざけなくてはならないだろう。というか、既にこの手の若手をはじめとする、日本では「浅田彰かぶれ」とすら言えるようなコンプレックス丸出しの可愛そうな洋書読みどもが何をしようと無駄である。僕と比べても大したこともない外見のくせに安っぽいパンクバンドのギタリストみたいな外見を装ってみたり、実際のところ何のインパクトもない通俗書をせっせと書いては社会貢献したつもりになっていたり、テレビに出ては愚かな原則論を繰り返す文化芸人を演じてみたり、そんなことをしても何の意味もないという一種の皮肉を自ら演じているのでもなければ、どれほど哲学用語や哲学者の逸話を講じてみたところで、上記のキチガイの文章と比べて社会科学的なスケールでのインパクトに大差はなかろう。

哲学は哲学することが主眼ではあるが、それを社会において為しているという自覚を欠いては、やはり他人に何かを知ってもらったり、他人に何かを訴えることはできないだろう。それは「実務」という言葉にすると、あまりにもイメージとしての哲学とは懸け離れているように見えるが、僕が思うに、そういうイメージは単なる錯覚であって、そのような錯覚によって自意識を歪めてきたことが「社会の中の哲学」という自覚なり節度を軽視する原因なのだろう。でも、実はそういう自覚があって、マスコミや出版社と適当な利害関係を維持しながら、自意識過剰に哲学者っぽいことを口走るというクズどもが日本に数多くいるのは、非常に不幸なことだと言わざるをえない。こんな状況は、恐らくこれから日本で 1,000 円の岩波新書すら気楽に買える人がいなくなってくるような時代になると、岩波書店がどれだけ革命的プロレタリアートのためにブツクサと下らない議論を昔とかわらずに印刷しても、やがて瓦解することは目に見えている。そして、そういう時代になったときに、単なる裕福な家庭の子息が暇潰しに人生や世界について悩み、手慰みにカントやプラトンを学ぶのが大学院であるという(僕は昔からそうだと思うが)日本の大学の現状が何か変わるのかと言うと、やや絶望を感じずにはいられない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook