2018年06月05日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-05 21:15:53

ブログの名前こそ掲載するべきじゃないのか?MIT Academic IntegrityのウェブサイトのCiting Electronic Sourcesの部分を見てみると、Purdue OWLのページへのリンクがある。Purdueの場合、ブログ・コメントを角括弧をつけて記載するという、やや謎めいた方式となっているが、おおよそ似ているものだ。僕から言わせれば、僕のブログの名前が持つ重要性は、どこかの学術誌に劣っていることはないので、イタリック体で記載することにする。APAのガイドラインなんか守らない。

ブログの引用表記

話の半分くらいは何年前の話題だろうと思い出さなくてはいけないようなことも含まれているが(プログラムが勝手に論文を生成したとか、そんなの冗談で昔からあった話だ)、ウェブコンテンツをソースとしてどう扱うかという話は、確かに僕も何度か MarkupDancing で話題にしたことがあった。ともあれ、伊藤さんのツィートに応答した人々の多くがウェブコンテンツをリソースとしては軽視する傾向がある理由として、伊藤さんは二つの点を挙げている。第一は、ウェブコンテンツはすぐにリンクが無効になってしまう(それどころかコンテンツは著者の胸先三寸で簡単に消えてしまうことも多い)から信用できないということ、そして第二は、ウェブコンテンツはピアレビューを受けていないので信用できないということだ。

ご指摘のとおり、ウェブコンテンツは簡単に消える。学術研究者のページであろうと、大学というのはすぐに FQDN を変えたりディレクトリ構造を変えたがる。大学の事務局というのは私立大でも官僚的だと言われているので、たぶん官僚と同じで IT やウェブという未知の領域で仕事をするコンサルなどに言い含められると、簡単にサイトの構造や URI を変更することが手柄になると錯覚するのだろう。あるいは、基本的に WWW というものを全くリソースとして評価してもいないし信頼してもいないのだろう。だが、大学がそういうことを率先しているようでは、やはりオンラインのコンテンツを「典拠表記」するとか、そのフォーマットを検討するとか、あるいはアーカイブ方法を探すというのは、何か物悲しい印象を与えるだけの徒労に終わるのかもしれない。要するに、民間人であろうと公的機関がやっていようと、リソースを維持するために必要なことは学術成果の尊重と金だ。この二つが揃えば、民間サービスだろうと公的機関のサービスだろうと、URI を固定して長期に渡って維持できる可能性もある。しかし、オンラインコンテンツのもっと根本的な困難、つまりどのようなフォーマットを使っていようと、インターネットを使う必然性が今後もあるのかということになれば、もはや金持ち国家の奉仕活動だけでリソースを維持するなどということに期待しても原理的に無理となる(たとえば、human enhancement によって脳に記録装置と通信装置が埋め込まれ、DNS をはじめとするネットワーク通信は全て衛星回線の P2P がベースになれば、つまるところ IX やプロバイダなどなくても電波さえ物理的に届けばいいのだから、インターネットも不要だ)。よって、もちろん本来は紙媒体の書籍や雑誌についても同じだと思うのだが、リソースを維持するというのは政治的・経済的・そして社会的と言っていいような、泥臭い活動の積み重ねによって何とか維持していくものなのだろうと思う。

第二に、ブログを始めとするウェブのコンテンツはピアレビューを受けていない。東大教授が書いたエッセイだろうと、Princeton University の名誉教授が書いた下書き論文だろうと、基本は僕らがここで書いているような文章と同じだ。何百のブログ記事を書こうと、そんなものを CV で一つずつカウントしてエルデシュの論文の数を越えたところで、そんなものはクソの山でしかない・・・というのが建前だ。もちろん、本当にたいていはうず高いクソなのかもしれないが。しかし、これについてはピアレビューの是非も含めて、コンテンツの評価方法という更に広い見方で考えると、オンラインで公表されたブログ記事だからというだけで即座に否定するようなものでもないだろうし、重要なのは、やはり当該の文書を読んで当人がどういう成果を挙げるかだろう。

が、上記で引用したように、そういう話と伊藤さんがブログのタイトルを典拠表記で使いたいという話は、あまり関係がないと思う。スタンダードな典拠表記だと、[Ito, 2018: 13] のように、そもそも URL もブログ名もないわけで、逆になんでブログ名を書く必要があるのかと思う。伊藤さんが望むのは、

・・・であろう [MarkupDancing, 2018-01-01]

という典拠表記でブログのエントリーを参照できるということなのかもしれない。でも、果たしてこの日付けは、参照した著者が閲覧した日付なのか、それともエントリーが初めて公開された日付なのかが分かり難い(もちろん MLA のように約束事で決めることはできるが、このような典拠表記を初めて目にする、アカデミズムと無関係な人にとって誤解を招く)。それに、上記は典拠表記のルールとしての一貫性に欠ける。たまに哲学でも [KdrV, B12] とかやる人がいるけど(『純粋理性批判』の特定の版のページ数を示す)、これは個人の単独の著書で採用している勝手なルールだからいいのであって、学術論文の典拠表記としては採用できないだろう。書名やブログ名が長大な場合は何らかの別のルールを決めて省略しないといけなくなる。

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