2018年05月27日 に初出の投稿

Last modified: 2018-06-02 11:21:37

対象となる問題はもちろん異なりますが、このような「自分たちの行動や判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して、意識的に批判・考察してみる知的態度や切り口を得ることができる、というのも哲学を学ぶメリットとして挙げられると思います。

「地位はあるけど教養がない」人たちの末路

で、この文章のどこに「地位はあるけど教養がない人たちの末路」が書いてあるのかな。たとえば、それって NEC や松下電器やトヨタや電通や大林組の取締役のうち、誰のことを言ってるんだろうか。この文章には何一つ実例がないし、それどころか、そもそも「地位はあるけど教養がない人たち」について書かれている文章ではないな。一つだけ言及されているのは、この山口周とかいう若者が「財界を代表する経営者」に軽くあしらわれ、顔を真っ赤にしながら東洋経済 ONLINE の原稿をタイプしてるのを思い浮かべるような場面だ。

しかしだね、君ら元電通マンは自覚が足りないと思うのだが、君らのような若造に「お金儲けの専門家」などと見下された人々が電通にどうでもいい広告費を湯水のように使って、金を儲けたり使う以外の特段の野心を持たなかったからこそ、君らみたいな無能でも慶応の修士で哲学のお勉強ができるくらい、平和で裕福な時代が何十年かは続いたんだと思うよ。その結果として、色々な問題が起きて残されているのは事実だが、平たく言ってそれ以外の彼らの実績は、いかに哲学のようなことをやっていようと、一定の割合で評価したり賞賛するのが社会人としての礼節というものだよ。こういう感覚を無視して生きても別に構わないが、そういう原理原則だけに生きる人間が、東洋経済 ONLINE に原稿を渡したり、なにやらクソみたいな通俗書を書いたりするのは、はっきり言って言動不一致どころか何か深刻な問題でもあるんじゃなかろうか(敢えて精神疾患を暗示する言葉は使わないでおくが)。

あと、冒頭で「日本アスペン研究所」とかいうよく分からない団体のサイトから引用してるんだけど、ここって村上陽一郎さんが代表理事になっているけど、基本的に大企業の役員や相談役をぞろぞろと揃えていながら実際のところは何の提言を書籍としても発行していないだろうし、自分達の企業においてすら何の影響力もないんだろうと思う。大企業の人の名前を並べたところで、彼らがただのお飾り(そういえば、ベンチャー企業で「哲学担当取締役」なんてことをやっていた方も都内にはいますなぁ)なら仕方が無いわけだし、逆にそういうわけでもないなら、これだけの人を集めておいて何もできていないんだから、問題は哲学(的な見方や考え方)に関心をもつ人が他の国に比べて多いとか少ないとかいう単純な話ではないということだ。

それに、この馬鹿げた文章をわれわれのような哲学者が一つずつ論評するのも時間の無駄だし馬鹿馬鹿しいが、彼の文章は、欧米の大学に留学した人たちの多くが誤解して帰ってきて書くパターンの一つと言ってもいい(彼が留学したのかどうかは知らないし、実際のところフランスへ留学した人物の本を読んでコタツ記事を書いてるだけなのかどうかも知らないが、それはどうでもいい)。それは、欧米では「人々」が街角でバカロレアの出題内容を喋っているとか、カフェで熟議(笑)をしているといった、非常に下らないウソ話だ。

簡単に説明しておくと、バカロレアはフランスで大学に進学するための資格を得る試験だ。つまり日本で言えば、大学への進学を希望する全ての高校生が、高校を出ていない人と一緒に「大検」を受けるようなものである。そして、フランスの高校生はおおよそ6割くらいがバカロレアを取得する。もちろん、実際に全員が大学へ進むわけでもないから、フランスの大学進学率は40%だ。そして、バカロレアには自然系や社会科学系といった種別があり、人文系のバカロレアを取得する高校生はは20%にも満たない。更に、新聞社や出版社あるいは人文系の素養を活かす専門職につこうとすれば、だいたいは更にグランゼコールという専門学科の高等教育機関へ進学しなくてはならない。要するに、日本から留学してくる哲学の学生と一緒に学んでいるフランスの哲学の学生というのは、エリート中のエリートだし、フランスの学生の中でも1%にも満たない割合の人々なのである。

したがって、こういう人たちが行き交う「オフィスやカフェ」でしか人に接したことが無い、葉山にお住まいで哲学書を読むという高級なご趣味をお持ちのお坊ちゃまは、フランスやドイツやイギリスの大半の人々は、実際には哲学など何の関心もない(それゆえ、フランスでも「哲学の権利」とか、人々に哲学を学ぶ機会を広げようという運動をする人がいるのだ)「人々」と接したことが殆どないのだろう。それに、「エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研究所では、世界中で最も「時給」の高い人々であるグローバル企業の経営幹部候補が集められ、風光明媚なスキーリゾートとして知られるアスペンの山麓で、プラトン、アリストテレス、マキャベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、マルクスといった哲学・社会学の古典をみっちりと学んでいます」などという一節にしても、いまアメリカでは多くの大学で哲学の学科やプログラムが廃止されたり、経済学などと(それこそクリシンだけを教える一科目として)統合されたりしている真っ最中であることを、全くご存じなく書いているようだ。大金持ちが暇潰しにコテージでプラトンの『国家』を読んでいるなどというアホ話をしたところで、修士を出た後はクリシン以外の勉強をしていなさそうな人間は知らないかもしれないが、実情を見れば欧米では哲学教育が縮小しているのであり、アメリカやフランスの真似をすればいいという時代錯誤の文章を書いても無意味である。

ともかく、哲学について通俗書を書いている最近の人々は、修士を出たくらいで哲学教育や哲学という営為を語る傲慢さだけでなく、自分自身がクリシンごときを哲学だと言い張るような短絡的な思考(「フレームワーク」という名の偏見でものごとを断定するということでもある)になっていることすら自覚できなかったり、浅知恵で自分が納得したていどのことを「世の中のあらゆる問題は既に哲学者が答えている」などと釣り文句で本にしたり(そりゃ、正否はともかく「答える」だけなら小学生でもできる)、哲学的にものごとを考えるという動機付けに逆行するような短絡ばかり人々にばらまいている。僕は、その原因の一部はマスコミが修士を出たていどの、物書きとしてどころか哲学に携わる者としても「素人並み」の人間にものを書かせるからだと思うのだが、最近はもうプロパーがこういう通俗書を批判することすらなくなっているので(出版社を叩くというのは、人文系の大学教員にとってはタブーなのだろう)、僕らのようなアマチュアが積極的に叩かないといけない。

それから、これは自戒も含めて書いておくのだが、クリシンを哲学と同一視する人々の多くが単なる揚げ足取りのようなことを吹聴しているときに、「社会や世の中の常識を批判する」という言い方で、哲学を社会貢献の一つとしてプレゼンしようとすることがある(いわゆる「哲学カフェ」にも、そういう体裁のところがある)。しかし、その場合には昔の学生運動と同じで、自分自身の考え方を批判するという観点や動機が抜け落ちてしまい、自分自身が「クリシン・マシン」に徹すれば世の中に貢献しうるかのような哲学者像を吹聴するという害悪をもたらすことになる。かといって、自分自身の考え方を批判するとか反省するというアプローチにばかり固執すると、今度はよくご存知のように、ただの自己啓発セミナーとか、マズローとか、アドラーとか、その手の心理学と安易に結び付けられたギリシア哲学の腐った亜流みたいなものを続々と紙屑として出版するアマチュアが出てくるようになり、こんどは社会に対する批判精神よりも事実上は自分の精神の安定とか保身のために「哲学」を学ぶような人が増えることになる。

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