2018年05月23日 に初出の投稿

Last modified: 2018-05-23 13:24:08

自分が通った学校の周辺について、土地勘があるようでない。小学校から高校までは電車で通学していたし、子供が学校の周辺で買い物や飲み食いするにも限度があるから、せいぜい高校時代に学校から歩いて通える場所に引っ越してから、少しは土地勘が身に着いたていどのものだった。それでも、学校の周辺にある店とか建物で覚えているのは、もっぱら飲食店や書店などであり、例えば不動産屋とかパチンコ屋とか司法書士の事務所があったかどうかなど、覚えてはいない(恐らく大多数の人もそうだろう。個人的に知り合いだとか、あるいは同級生の家でもなければ、高校生で自宅近くの司法書士事務所や社労士事務所の場所を覚えている方がおかしい)。

さて大学に入ってからどうかと言えば、僕はプロフィールにもあるとおり、学部、修士、博士と大学を渡り歩いていたため、それほど長年に及んで大学の周辺に行き来したわけでもなく、そして自宅から大学まではどこも遠かったので、周辺の店に入ったり入り浸る暇もなかった。

特に、学部時代を過ごした大阪経済法科大学は大学が生駒山地の西麓は中腹にあったため、そもそも周辺に繁華街や商店街が全く無かった。食事は大学のホールにあった食堂でカレーを掻き込むか、1個100円のハンバーガーを自販機で買っていたくらいのものだ。行き帰りは北の瓢箪山駅か南の山本駅(しかも山本駅からバス停までそれなりに歩く)を利用するのだが、どちらもさほど目ぼしい古本屋も大きな書店もないため、さっさと大阪市内へ帰る方がマシという状況だった。

次に修士の時代を過ごした関大は、留年して修士論文に没頭した3年目こそ大学の図書館の地下で勉強に没頭する時間もとれたが、1年目と2年目は第一パンへ派遣社員として通って深夜に勤務し、仕事が終わった5時頃に蛍池から阪急宝塚線でいったん十三に戻って、再び阪急千里線で関大前に戻るという面倒臭いことをやっていたため、ゼミを休んで竹尾先生に叱られたこともあった。また、江坂で中学生に理科を教える塾の講師をやったときは、関大でゼミや講義が終わると塾まで 2 km くらいの道を歩いたりもしていたし、とにかく修士時代の二年間は大学の周辺を歩き回る余裕などなかった。したがって、留年した最後の1年だけは、関大前の商店街にある古本屋でカッシーラーの『実体概念と関数概念』の原書を買ったり、先輩らと一緒にゆっくりマグマ丼を食べたりする時間が取れた(ちなみに竹尾先生は1997年に関西大学を退官されたので、僕には「竹尾門下」での後輩はいない。先輩からは僕は「竹尾先生の最後の弟子」だとよく言われたが、定義がよく分からないし、博士課程のボスである森先生に失礼な気もするので、自分からそういうことを言ったことはない)。しかし、関大もなんだかんだ言って住宅街の中にある大学なので、土地勘と言ってもさほど目ぼしいランドマークが付近にあるわけでもないため、やはり大学のことしか分からない。それに、院生ともなると大学院の校舎でしか講義がないので、他の学部の校舎などは全く入ったこともなく、学部生が使う文学部の校舎ですら2回くらいしか入ったことがないし、一緒に竹尾先生のゼミに出ていた岸(政彦)さんがいた社会学部の校舎も全く入ったことがない。というか、岸さんに自己紹介されるまで関大に社会学部があることすら知らなかったくらいだ。

そして最後に神戸大だが、自然系の図書館を利用したり、シリコングラフィックス社の端末を使ってメールや WWW ブラウザを使い始めた頃だったので、他の学部の校舎へも何度か足を運んだ。また、ろくにフランス語もできないのに科学史の横山雅彦先生のコイレの購読を履修して国際文化学の校舎へ通ったこともあるが、もちろん暫く出てから先生と相談して止めることにした。博士課程の頃は、阪神・淡路大震災から3年くらいは経過していたが、JR の車窓からはまだまだブルーシートを被った屋根がたくさん見えたのを覚えている。神戸時代のボスだった森先生からも、電車が通じていないので住吉あたりから歩いて大学まで行ったという話を何度か聞いたし、何人かの学生が亡くなったという話も伺って、ちょうど復興する時期と同時に通っていたことになる。そして、やはり大学の周辺は住宅街なので、阪急の六甲か JR の六甲道まで下りないと何もないというありさまだった。しかも、その時期もあれこれとアルバイトをしていたため、ゼミが終わったらすぐに家へ帰ることが多かった森先生と一緒に山を下りて、JR で大阪環状線の鶴橋まで一緒に話をしながら帰ることが多かった。また、ひとりで大学の周辺や六甲の周辺で何かするわけでもなかったし、古本屋は幾つかあったが、さほど食指が動くような品揃えでもなかった。そして、神戸大の周辺も基本は(高級)住宅街なので、土地勘もなにも、その必要を感じなかった。

恐らく、人々が「愛校精神」と言っているものの多くは、学校だけではなく先輩や後輩との人間関係や、あるいは周辺の店とか施設を利用した経験も含めた、学生としての生活環境についての愛着のことだと思うので、そういう意味で言えば僕は土地勘も含めて自分が通った学校に愛着が弱いと思う。そして自宅も頻繁に引っ越しを繰り返したので、「自宅」の周辺環境という意味でも愛着が弱い。確かに、いまでも主に中学時代を過ごした東大阪の東花園の生活は、そもそも生活の心配もなく気楽に勉強したり遊んだりできたという幸福な事情もあってのことだと思うが、いまだに郷愁のような気分は感じる。たぶん、考古学をやっていた頃だったので、ここ数年のあいだに山畑古墳群のサイトを作ろうとしたのも同じような動機があったためかもしれない。

考えてもみれば、いま住んでいるところが僕の人生ではもっとも長い年月になっているのだった。船場センタービルのページを作ろうとしたり、行き帰りに歩いている船場地区の道だとかランドマークを調べていたりするのも、やはり何か凡人なりの思い入れが出てきたのだろうか。

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