Scribble at 2018-05-20 09:31:11 Last modified: 2018-05-20 09:46:35
このような学術研究者用に公開されている図版についても、特定の仮説や received view だけに解釈を狭めるような「わかりやすさ」が描画手法に取り入れられたり前提されていないかどうかを批評するような議論が必要だと思う。かたや、哲学の通俗本で「実在論 vs. 反実在論」を線対称に描くといった子供騙しの「わかりやすさ」などは、そういう概念が成立するのはなぜかという歴史を学べば教科書などなくても疑う力は身に付くし、疑問に付するきっかけも生まれる。
したがって、自然科学よりも人文・社会が古典の読解に高い比重を置いているのは、それを自然科学の(或る意味では力強いと言いうるし、別の意味では軽率な)アプローチに寄与するなりフィードバックするためとも言える。そして、自然科学の成果を取り込むのが従来のまともなレベルの哲学だったわけで、未成熟な時代には哲学者が自然科学者でもあって自らそういうプロセスを実行していたと言える。これを「理系 vs. 文系」などと対立させて、どちらかの優位性を愚かにも議論し始めたのは、まったくもって予算のぶん取り合戦という下らない事情でしかなく、学術的に言って(これは本来は理系も文系も関係ない、われわれのような哲学者から言えば「哲学的」と言ってもいいのだが、まぁバカからすれば「上から目線」のようにしか見えないだろうから、善人ぶった中立な表現に留めておこう)愚者どうしの論争としかいいようがない。こういうバカどもの論争を、教育制度と学術の価値とを混同して煽っている、池田信夫氏を始めとする「口先リバタリアン」どもも似たような知的レベルの文化芸人でしかない。気の毒に大学教員はこういうことに巻き込まれてしまうが、アマチュアは(少なくとも洋書を読めるレベルの学術研究者であれば)殆ど影響を受けないのが利点だ。
既存の観点を疑問に付するということであれば、昨今のクリシン・ブームによって同じような効果はあるかもしれないが、そのクリシンですら批判を避けられないという事実を忘れると、高学歴の与太者たちがワインを片手に昼食時にやるようなディベート・ゲームや揚げ足取りに終わってしまい、哲学的な批評も刹那的な暇潰しに回収されて、結局は既存の価値観の中に埋没するという酷い結末を迎える。したがって、保守的な人間が何事かを批評してみせるという「芸」を喝采するのは軽率だ。