2018年05月19日 に初出の投稿

Last modified: 2018-05-19 12:10:37

僕はノートを作るときに、当該の書籍や論文が手元になくても self-contained で扱えるようにしたいと思っている。もちろん元の著作物を全て書写しているわけではないし、そうする必要がある著作物など実際には非常に少ないので、簡単に言えば著作物の「論点」ごとに引用したり、自分なりの概略を書いて済ませる。自分でその箇所についてまとめるということは、後から読み直すと違うまとめ方ができたはずだと気づくときもあるので、常に的確あるいは正しいとは限らないのだが、だからといって全ての著作物についてオープンな扱いをしていては寿命が幾らあっても足りないし、それこそ元の著作物を常に照らし合わせられる環境を維持しなくてはならなくなる。図書館で本を借りたときでも、図書館は僕らが読むような類の本はクズのような小説と引き換えてすぐに処分してしまうから、結局は全て買っておかなくてはならなくなるだろう。しかし、そんなことを強迫神経症のように気にしていてはいけない。しょせん、限られた時間において自分の望むことに専心して納得のゆく成果を上げたいのであれば、やはり読書はあくまでも補助であって、何をどれくらい読むかで成果が決まるかのような「読書決定論」とか「薀蓄決定論」のような polymath 信仰に頼って哲学をやっていてはいけない。

だが、当サイトのようにページを公表するときは、それ自体が資料として参考にしてもらいたいという意図で書いているようなページであればともかく(たとえば MarkupDancing の方で船場センタービルを扱っているページは、そういう意図で制作している)、哲学の論説については元の著作物をあるていどまじめに読んでいることを前提に書いている。確かに、知識の蓄積とか継承の効率だけを重視するなら、先行する者が議論の重要なエッセンスなり論点だけを抜き出して後続する者に渡す方が、車輪を再開発という愚行を避けられるかもしれない。しかし、古典の読解とか哲学の問いを考えるということについては、何度でも同じものを読み、何度でも同じ問いを問うことに意味があるので、敢えて読んでいない者には理解不能な書き方をする。そこで止めてしまう者や、勉強しない言い訳を言い始めるような人間は、しょせん哲学をする必要などなかったのである。

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