2018年04月14日 に初出の投稿

Last modified: 2018-04-22 17:39:34

https://philsci.info/archive/note.html?date=20180407213059

かつて、こういうノートは書いたのだが、だからといってセネカの改訳が日本語の文章として優れているとは思わない。ここ数日も、改訳されたセネカの著作を読んでいるのだが、反動的というか、文語体の聖書を尊ぶ古老が口ずさむがごとく古臭い日本語の文章となったものだ。いったい、いまどき日本の成人で「かこつ」などと手紙や遺言書や辞表やラブレターに書く人はいるのだろうか。

それに、僕は哲学書を読み始めて間もない高校生の頃に、岩崎武雄さんの『正しく考えるために』(講談社現代新書)と茂手木さんのセネカの翻訳を読んでいたのだが、そういう年齢で読んで感じた印象が今ではすっかり欠落してしまっている。こんな余裕があるだけの人々による、ストイックと言うよりも寧ろシニカルとか冷笑という印象を感じるような文章をえんえんと読むくらいなら、単刀直入に「光陰矢の如し」と言われた方がマシに思える。セネカの文章は、まるで RFP による総務省案件の企画書を作成するだけで 1cm あたりの厚みで 1,000 万円になる、IT ゼネコンのプロジェクトマネージャが書くような、分厚いだけで中身の薄いシステム要件定義書のようなものだ。

そろそろ、再び藤澤令夫さんの著書を紐解きなおさないといけないらしい。竹尾先生は藤澤さんの『ギリシア哲学と現代』や『プラトンの哲学』みたいに熱量のある本はないので(思い入れという意味で熱意が込められた著書はある筈だが)、京都賞の選考委員としても並んでいたお二方のどちらの著作でも手に取る意義はあるが、こういう状況では藤澤さんの著書が効果的だ。(と、何年かおきに哲学というアプローチに失望を感じては、藤澤さんの著作を読んで反省させられる。)

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