2018年03月25日 に初出の投稿

Last modified: 2018-03-25 11:02:08

幾つかのブログを読んでいると、決して derogatory は含んでいないにしても「しろうと」と平仮名でわざと表記したり「門外漢」とか「一般人」などと書かれていると、やはり何事かを区別するということ自体に価値判断が混在してしまうように思える。書いている当人が全く意図していなくても、読み手によっては「しろうと」と書かれると(自分が実際に基礎的な素養をもっていないという自覚とコンプレックスがあればなおさら)、バカにされたように思い込む人がいたりするのが難しいところだ。

哲学について考えてみると、もちろん何度も書いているように、大学で教えている人間だけが哲学に専心しているわけでもなければ、その資格があるというわけでもない。しかしだからといって、何の素養もなく訓練も受けていない者が勝手に書いていることを、後から CGM コンテンツよろしく他の正しい情報が凌駕するから放っておいてもよいと呑気に構えていいかどうかは、社会科学の問題として自明とは言えない。誰かが偶然にたった一度でも Google の検索結果で「自称天才思想家」のサイトへたどり着くだけでも、由々しきことであろう。リスクをゼロにできないという原理的な仕組みを、何の対策もしないための言い訳にしてはいけない。現に、プロパーや専門的な教育を受けたアマチュアが(それなりの水準で)コンテンツを増やしたり、クズみたいなコンテンツを名指しで批判していったり、場合によっては意図的に虚偽を掲載しているという理由で検索エンジン企業へページを検索結果に表示し内容に通報することだってできるし、内容によってはサーバ会社にコンテンツのホストを止めさせられる。

こういう場合に、プロパー(と彼らに準じるアマチュア)として「素人」という言葉を使うと、それはどこまでを含むのか。僕の語感だけで言えば、学問としては一定の素養を修めたり訓練を受けていない(つまりはプロパーから学術的な成果としての批評を受けたことがない)人々のことなので、恐らく昨今では哲学科の学部生も含まれると思う。しかし、「素人」という言葉には何か他人を見下したようなニュアンスが付きやすく、あまり使い勝手のよい言葉とは言えない。なんとなれば、哲学していないからといって、別にその人物が人として何か重大なことに気づいていないとは言えないし、人として何かが欠落しているというわけでもないからだ。哲学していようといまいと、しょせんは人はホモ・サピエンスという生物個体にすぎない。こういう個体が哲学と呼ばれる一定の認知活動をしていようといまいと、この宇宙の成り立ちには何の影響もないだろう(もちろん、その成り立ちを理解したり議論することに影響があるのは自明というか殆ど同語反復だ)。したがって、哲学するということや、哲学していないということを、どちらも価値判断を含まないように表現するには、それぞれを単に区別するだけでは不十分であって、どちらもそれぞれ可能な限り余計なニュアンスを与えないような語句で表現しなくてはならない。たぶん、それを母国語でやるのは難しいと思う人は、わざと外国語の原語を使うのだろう。ただ、そういう表記の仕方そのものがペダンティックであるという別のニュアンスを表してしまうので、適切かどうかは即断しかねる。

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