2018年03月10日08時21分 に初出の投稿

Last modified: 2018-03-10 08:21:25

これまでに、科学哲学では常石さんや藤川さんの翻訳が話題になってきたわけだけれど、原著ではクリアな議論なのに、訳文では論旨が分かり難い翻訳なんてのはたくさんある。でも、そういう翻訳書があるからといって、いちいち他の出版社で翻訳権を取り直して別の人が翻訳するとまではいかないのが、収益に大して貢献できない分野で出版する難しさなのだろう。たとえばクーンの『科学革命の構造』は、中山さんの翻訳が少なくとも30年くらい前から「よくない」と学界では指摘されてきているはずだが、古典的な著作として一定の売上があるだろうに、いつまでたっても新しい翻訳が出ない(そろそろ「ちくま学芸文庫」か「講談社学術文庫」からでも出しなおしてはどうか)のは、これだけ話題になってきた著作であっても翻訳権を取り直したり改訳するコストを負担するのが難しいくらい、収益を期待できないということなのだろう。よって、もっとマイナーな翻訳書(つまりはマイナーな原著)については、「よくない」翻訳であろうと改訳は殆ど無理と言って良い。

言語哲学としての見識に関わるとは思うが、翻訳書だけで原著の主旨や論点を掴めるかどうかは議論の余地が大きい。とりわけ、ハイデガーやデリダが書いた著作のように、言葉の綴りからして異様なニュアンスを放っている文書を日本語に翻訳することは、ほぼ絶望的と言ってよい。しかし翻訳が無意味であるとは言えず、敢えてその絶望的な難しさを訳文で伝えて原著への興味を促すという効用はあろう。そもそも、そういう著作を一定の水準において正確かつ十全に理解しようとすれば、その趣旨(繰り返すが「主旨」ではない)も知らなくてはならず、その本を読むだけでは足りないのであるから、原著であれ訳本であれ学術研究としては、どのような著作も手がかりにすぎないとは言える。

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