2018年02月16日23時27分 に初出の投稿

Last modified: 2018-03-05 00:20:54

人が philosophizing である状態を想像したり表現しようとしている場合に、それは何か複数の必要条件によって適正に(「適正に」なら、それで「いい」のか?)意図を伝えられるのだろうか。恐らく、これについて十分条件を厳密かつ明晰に定式化することはできないだろうと思うのだが、それでは必要条件ならどうだろうか。しかも、「~ではないような状況」といったネガティヴな表象で限定せずに必要条件を定式化するのが望ましいのだが、そもそもそんなことが可能なのだろうか。何のテーマや目的もなく、座禅を組んで無の境地を目指すようなことは、恐らく「哲学すること」とは違う・・・と思いたいが、その根拠は何だろうか。その根拠を明解に表現できれば、逆に「瞑想のようなもの『ではない』」というネガティヴな定式化を避けられるのではないか。かと言って、なるほど「哲学すること」を何らかの意図的な営為とか試行のように表現すると、そういう断定こそが哲学的ではないと言いたがる人々が現れがちなのもまた、哲学という分野の特徴でもあろう。それを避けるには、恐らく我々が自ら最初に「これは定義や仮説である」と断り、そしてその定義や仮説の上で実際に成果を上げるしかないのではあるまいか。そういう勝手な定義や仮説を置いたのだから、それ相応の実績を上げない限りは、そんな定義や仮説を置いたところで何の役にも立たないというわけである。それはそれで尤もらしいが、しかし今度は、哲学はそういう論証によって自らの定義や仮説を正当化しうる実績を上げたら「勝ち」なのかという疑問が現れる。

まだまだ先は長い。

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