2018年02月15日07時22分 に初出の投稿

Last modified: 2018-02-16 09:07:15

昨日、たまたまコリン・マッギンが Mind に公表した "Can We Solve the Mind-Body Problem?" という論文を久しぶりに掘り起こして眺めていた。僕も彼と結論は殆ど同じであり、心身問題は「構図」にそもそも論点先取がある擬似問題であり、解決できるわけがないものだと思う。これをクリアに議論したいとは思っているが、おおよその着想だけ言えば、ポパーの三つの世界を使えるのではないだろうか。つまり、心身問題がまやかしであるのは、それが物理的な脳の現象についても、そして我々の意識についても、記述であり論証という別物だからだ。この別物をわざと隠して、直に脳の現象という原因と意識の主観的な受け止め方という結果について議論するから違和感を生ずる人がいるのだろう。しかし、それが記述や論証でしかなく、我々の現在の知識や技術、そして我々自身の認知能力をもってしては、正確な記述や記録は工学的に全く不十分な状況でしかなく、そして脳の反応を厳密に測定できたところで、それを我々自身が把握したり理解する認知能力はないという点で、恐らくは原理的に記述と脳の現象や記述と意識内容を正確に結びつけることはできない。もっとはっきり言うと、心身問題やハードプロブレムが解決不能であるのは、もし脳の物理的な現象と意識の内容とに因果関係を認めるとしても、それは原因と結果は「違う」からであり、脳の物理的な現象「こそが」意識の内容そのものであるとすれば、それらを一致させるような記述を我々はもっていないし、それらを同じこととして理解するための認知能力をヒトは獲得していないからである。

[2018-02-16 09:05 追記] もっと簡単に言うなら、「今日は寒い」という語句を眺めた複数の人間が脳において全く同一の反応や影響を惹き起こすわけではないという事実が、心身問題という見せかけの「難問」のまやかしを説明すると思う。

[9:46 追記] 朝起きたばかりの状況で手っ取り早く書いたから雑になってしまったが、上記に加えて意識の哲学そのものについても言えるのは、thanatophobia の論説でも触れているように、意識(誰のであれ)について理解することは、自分の意識している状況と同じではないのだから、これが一致するわけもないという前提で、あたかも一致する(ことが理想である)かのような話をしているのが意識の哲学だと思う。僕は、そういうことをどれほど議論しても時間の無駄だと思うが、なぜ時間の無駄なのかを説得力をもって論証するのも難しいというのが実情だ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook