2018年02月04日08時23分 に初出の投稿

Last modified: 2018-02-04 08:33:24

分析哲学の概説や通俗書は幾つか手にしているが、ラッセルについて書かれている箇所でお馴染みとなっている「『ウェイヴァリー』の著者」という表現について、歴史的な脈絡とか、ラッセルがどうしてウォルター・スコットの事例を好んで使うのかという説明がないため、この「『ウェイヴァリー』の著者」という表現が、そもそも当時の人たちにはウォルター・スコットの殆ど別名として使われていたというニュアンスが読み手に伝わらないように思う。前にも書いたことがあるのだけれど、国内には分析哲学に限らず英語秀才はたくさんいるわけだが、実際に原著の『ウェイヴァリー』を読んだり、18, 19世紀のスコットランドについて一定の素養をもっている人がどれくらいいるのだろう。

もちろん、このような歴史的経緯を知っていることによって、どういう効用があるのかを説明できなくてはいけない。現実には当時の多くの人は『ウェイヴァリー』の著者がスコットであると知っていたと哲学の教科書に追記したところで、それが本文の議論にどう関わるのかを「哲学的」に立証できない限り、そのような情報は哲学においては有効に活用できない(必ずしも些事だとは思わないが)薀蓄にすぎないからだ。この表現は、特に指示について持ち出されるため、「『ウェイヴァリー』の著者」が指示する何かと、「ウォルター・スコット」が指示する何かについて、当時の人々の多くは二つの表現の指示対象が同一であると知っていたという情報や、現今の多くの人は二つの表現の指示対象が同一であると知っている保証はないとか、あるいはそれらの仮定にラッセル(というかイギリスの上流階級の人)にありがちな皮肉とか階級意識を指摘することで、哲学の議論として何が言えるのかということでもある。

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