2018年01月10日15時03分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-10 15:06:53

更に「読破バカ」の続きとなるが、確かに色々なものをたくさん読むことの効用を、敢えて露悪的な教養主義として表現したと思えば、それなりに理解できなくもない。日本に限らず、世の出版事情というものを眺めてみるに、相対論、量子論、進化論、不完全性定理、それにベイズ統計学などなど、通俗本のネタは永久に増えていく。しかし、社会の構成員の大半が一定の水準で常識としての理解に到達するかと言えば、せいぜい「生き物を作ったのが神であるわけがない」という論点先取の内容だけだ(論点先取だが、「神はいない」という前提は正しいわけだが)。

そして、それはヒトの大半が凡人であって、学術研究者であろうと特定分野を除けば凡庸でしかありえないという厳粛な事実に照らせば、何も驚くようなことでもない。なぜなら、相対論や不完全性定理への正確な理解というものは、たかが(通俗本であろうとなかろうと)本を一冊だけ読むていどのことでどうにかなるわけではないからだ。そして、こういう理解は残念ながらたいていの家庭において親から子供へ受け継がれない(偏見や思い込みは、なぜか受け継がれやすいのがヒトという種の認知能力の脆弱性だろう)。時代を経ても、常に子供から大人へ教育されるときに、教養のレベルにおいては振り出しに戻るしかないというのが現状だ。

しかし、それでも教育や啓蒙は続けなくてはならないと思う。もちろん、従来の「教育」や「啓蒙」を無批判にそのまま続けるという意味ではなく、他人へのアプローチとして必要であるという意味においてだ。しかるに、通俗書は書かれ続けるだろう。だが、僕にはそれらの大半は、編集手法としても執筆の技巧としても、真面目にメディアリテラシーや心理学などに学んだうえで制作された、まともな「プロダクト」であるとは思えない。

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