2018年01月05日08時52分 に初出の投稿

Last modified: 2018-01-05 08:53:40

斎藤哲也×山本貴光×吉川浩満「『人文的、あまりに人文的』な、2017年人文書めった斬り!」 @saitoshokai @yakumoizuru @clnmn

出版業界関連のイベントでのプレゼンスはあるようだけど、この3人って結局は何を主張して、そして支持されてるんですか? まぁ僕の記憶でも、浅田彰さんの頃から「語り口調」とか「切り口」で評価されてるけど、要するに学説とか理論として何か一つでも独創的な業績を残したのかというとプロパーでも説明できない人々というのはたくさんいるし、どのみち日本に限らず人文・社会系の物書きとか学者というのは、観念を流通させる市場での潤滑油やガス抜きという道化役として制度的な身分が保証されてきたと言えなくもない。

しかるに、やはり哲学というものはそういう制度からも自由でなくてはならず、僕には "metaphilosophy" とか "applied philosophy" というのは、いまいちコンセプトに無理があると思う。哲学に「メタ」などという視点は(哲学としては)存在しない。哲学という営為を(クワイン的な脈絡で)相対化しうるのは、メタ哲学などという自己増殖的なコンセプトではなく、単に知識社会学とか大学の経営学とか学術コミュニティの社会心理学だろう。哲学の中でしか哲学を相対化できないというのは、その当人がバカであるか、あるいはごくごく平凡な意味での「世間知らず」だからである。

また、数年前から日本でもコミュニティが立ち上げられた「応用哲学」にしても、その業績一覧を眺めると強い違和感を覚えずにはいられない。僕には、「応用」というよりも、寧ろ哲学としてすら瑣末なことをやっているようにしか思えないからだ。端的に言うと、哲学を応用するべきは、まず自分自身の節度なり身の処し方であろう。政治哲学を応用するなら、まず自分が次の国政選挙でどういう投票行動を採用するかであって、浮動票などという観念を弄ぶことでもなければ他人がどう投票するかをあれこれ悩んでみせることでもなかろう。「あなたは、研究した成果を自分自身にどう当てはめて物事を考えたり行動するのか」が応用の最適な対象であり、当然の対象でもある。しかし、そういう業績は海外でも殆どない。やっていることは(やや戯画化すると)、風俗店のホストによる D-N explanation だとか、アダルト女優がイク演技をするときの現象学的解釈とか、ヤクザの鉄砲玉が殺す相手の目星をつける際にベイズ主義を採用しているかどうかとか、まぁそういう(昨今の刹那的な書き物で業績を積み上げるセンチメンタルな社会学者なら大好物だとは思うが)読み物を書くことだけだ。確かに、それらにも「意味」はあろう。しかし、そういう「意味」を措定してしまうことが心理的な障害であるという可能性もあるし、そういう書き物を積み上げること自体にも何らかのアーカイブ偏執症ともいうべき社会心理的な問題を指摘しうる。

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