Scribble at 2024-04-20 16:01:22 Last modified: 2024-04-20 16:09:49

僕はかなり前に「モヒカン族」をやめた。ここをご覧の方はネット・スラングには疎いと思うので説明しておくと、モヒカン族というのは、或る意見や主張を内容だけで評価する態度のことだ。このところ、これとは逆に、或る言動がどれほど称賛すべきことでも、それを為した人物の人間性に問題があるとか、あるいは過去に非難するべき言動があったなら、その社会的な評価を相殺するどころか逆に封殺すべしと噴き上がる、いわゆる cancel culture というのがあるけれど、それとは逆のスタンスだと言えばおわかりだろう。

で、僕はそういうモヒカン族というスタンスを長らく支持していたのだが、やめた。事情やきっかけはよく覚えていないのだが、第一に、簡単に言えば外形的にはサイコパスと区別がつかないので、まず処世術として損であり、第二に、社会科学的なスケールの話として、やはり品性下劣な人間の言うことは、どれほど文字列として評価して適切かつ正しいことを述べていようと、聞く人は少ないのであり、そして第三に、酷く簡単に言えば、品性下劣な人間の正しい発言を封殺して人類が被るリスクは、さほど高くないと思えることだ。品性下劣な人間ほど圧倒的に正しいことを言うなんていう矛盾した傾向があるならともかく、人格や事績に大過のない人物の正しい発言が世に出る確率が大して変わらなければ、一方を封殺しても残る方の発言を邪魔しなければ、人類が正しいアイデアを汲み取り逃がすリスクは大して高くならない。言論を内容で評価することは恣意的な運用によって大きなリスクとなる可能性はあるが、発言している人間の評価によって言論を封じても、文化的な観点での社会防衛という理屈から言えば、特に大きな問題はないと思う。もちろん、どういう人間の言論を封じるかは我々が決めるのだから、愚かな決定をしないように牽制したり、それぞれが考えたり議論して適正な判断なり選択をしなてくはならないわけだが、その選択そのものが不当であるという考え方は僕には受け入れられない。

ということなので、品性下劣な人間の成果はどれほど客観的・形式的に優れていても人類の歴史からは排斥するべきだと思う(いま、「それを、お前さんが他人事のように書いているのはなぜだ?」と言いたい人がいるのも承知しているがね)。よって、その評価の基準によっては奴隷制の社会でのうのうと哲学なんてやってた古代の連中の業績も無視するべきという判断があってもよいと思う。それこそ、哲学者というものだよ。君らのような哲学史のジャニーズとか思想史における坂道アイドルにしか関心がないようなミーハーどもにはわからんと思うが。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook