Scribble at 2017-07-19 10:34:50 Last modified: 2017-07-19 17:14:52

Twitter では、大阪市立大の法学系の教員が授業をボイコットしたとかで話題になっているが、その是非についてはともかくとして、まず最初に確認しておきたいのは、我が国は明治時代から現代まで一貫して、全ての国民に教育を受ける権利を保証するような政策を採ってきている。とりわけ、1975年から2000年まで四半世紀にわたって続けられた高等教育計画は、「我が国の経済的発展を支える人材養成のため、高等教育で学ぶ若年人口の量的拡大や、第2次ベビーブームのような18歳人口の急増期における受験競争の緩和等を目的として、政策的に実施されてきた」とされている。このような経緯があって、日本には大学がたくさんあるというのが現状だ。つまり、大学が「高等教育」機関であることに変わりはないが、それは高校の次に行くところだからにすぎず、大学へ進学する者が「もっと高度な教育を受けたい」と望んでいるかどうかは別である。そして、幾つかの報告にもあるとおり、一部の大学では中等教育課程の「復習」のようなことをやっていたり、それどころか中学レベルの数学ができない大学生も数多くいるという。つまり、既に多くの大学は学問を志す人々が集う場所ではないのだから、授業中に教室へアクセサリーとして連れてきた女性と愛の会話を交わしたり、スマートフォンでメビウス・ファイナルファンタジーをやっている学生がいても不思議ではない。

こうした実情を憂える大学教員は多い。「そういう学生」など大学に来なければいいと発言する人もいるわけだが、「そういう学生」が客として授業料を払って大学経営が継続できているからこそ、自分たちが「そういう学生」の大学で教員をしていられるのではないかという、簡単な社会科学の思考くらいはできてもよいだろう。仮に、偏差値 80 以下の高校生を一斉に足切りしたり、旧帝大以外の大学を全て認可せずに大学として消失させたとして、君たちが「大学教授でござい」と言っていられる保証はなかろう。

また、何かというと大学教員が雑務をするのは無駄であるという理屈が出てくるわけだが、専門のセクレタリや教務職員を雇用して事業を継続できる大学がどれほどあるのかを、初等レベルの経営学の教科書でもいいから読んで考えてみてはどうだろうか。少なくとも大学の教員であるからには、高度な学術が本当に遂行できるかどうかはともかく、お勉強くらいはできるだろう。

それから、一部に出てる球団経営と大学のアナロジーには強い違和感がある。大学は高等教育の普及という大義によってプロ野球の球団よりも意図的にたくさん認可・設立されてきたという経緯があるわけで、日本の大学教員の大半は淡口や松本や山本や駒田・・・みんな巨人の選手だけど、そういうプロ野球の一軍選手ではなく、申し訳ないけど草野球のプレイヤーにすぎない。貴族じゃあるまいし、専門の事務員が最初からいる方がおかしい。

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