2017年06月22日11時39分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-06-22 11:56:08

「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。

まず、僕らみたいに広告業界の端っこにいて電通さんや博報堂さんの仕事をやってるレベルの人間から言わせてもらうと、もう記事や書物のタイトルに句点を付ける劣化版の糸井重里みたいな手法は、頼むからやめてほしい。会社でコーヒーを噴出しそうになるくらい滑稽で愚かだ。

さて記事の内容については、プロパーがさんざん Twitter でネタにしているのを読んでいる人も多いと思うので、アマチュアの僕が更に何か言う必要もない。それに、僕は学位として彼女と同じ修士なので、特に学術研究という点で何か偉そうなことを言えるものでもない。しかし、やはりそれ以外の点については、こうして記事として取り上げて記録しておいた方がよいのだろう。

これまで、僕は哲学カフェとか哲学カウンセリングとか子供に哲学を教えるイベントとか、そういった大学教員の通俗的な取り組みから、ここで取り上げる小僧どもの思い上がったセミナーや講演活動のようなものに至るまで、これらをことごとく、宇宙論的スケールでは言うに及ばず、社会科学のスケールにおいても誤差の範囲にすら入らないていどの影響力しかない些事なのだから、好き勝手にやらせておけばいいと断じてきた。これは、或る意味では僕の本意ではなかったと思う。なぜなら、他方で僕は、観念というものがどれほど人の思考を誘導したり歪めて、凡人の集まりである社会に大きな影響を及ぼすかを警告してきたからだ。では、こうした馬鹿げた哲学マーケティングや哲学イベントの類も、同じように間違った取り組みが続けば多くの人に間違った思考やものの見方を植え付け、観念として杜撰に他の経験や印象と結びついて強固な偏見を知らず知らずのうちに長期に渡って培っていくのではあるまいか。やはりリスクを未然に防ぐには、こうした馬鹿げた取り組みを先に叩き潰すことが望ましく、大学教員には立場上の人間関係や出版・マスコミ業界との利害関係があって非難することが難しいという事情があるなら、アマチュアである我々が率先して叩き潰す責任があるのではないか。

僕は、どちらかと言えばプロパーが即座に馬鹿げていると非難しがちであるという前提で、彼らの活動を非難するには当たらない、なぜなら些事だからだと言ってきた。つまり、非難すべきでは無いと彼らを擁護している体裁だが、その理由は皮肉なのである。しかし、哲学カフェを何百年続けようと社会は1ミリも良くならないと言ってはいても、その趣旨は何をやる必要もないという諦観や冷笑ではなく、啓蒙にはもっと他に効率的で妥当な方法があるということである。

単なる読書会や哲学っぽい問いを決めてお喋りするような暇潰しに効用があるくらいなら世話はない。学問の歴史は、それ自体の研究プロセスの歴史でもあると同時に、研究成果を他人に伝達したり説得する歴史でもある。そして研究成果を伝達したり説得するという点について、我々は殆ど業績をまともに積み上げておらず、言ってみれば属人的な成果や活動に期待していたのである。それゆえ、早稲田の修士を出た程度の人間が哲学のブログで適当な古典解釈をたくさん書いた程度で通史どころか哲学の何たるかを他人に教えられると出版社に誤解されたりするし、この記事のように、こう言っては気の毒だがドイツ生まれで苦も無くドイツ語の原書が読めるていどの人間が、修士号を得ただけで哲学を他人に語れる免許を得たかのように思い込んでしまえるような教育しか、上智大ではできなかったわけだ。

従って、哲学のプロパーがこの女性について批判的にコメントするのは、或る意味で卑怯なことだと思う。問題があるなら、哲学がそういうものだと教えたか、そういう理解について補正できなかった上智大学の哲学教員ではないか。なぜなら、その点について上智大の教員が何の関与もないとすれば、この女性は、いったい修士課程まで行ってドイツ語の単なる輪読会をやっていたのかという話になる。こうして詰めていけば、結局は教員同士の哲学についての議論になってしかるべきで、そこを避けながら「哲学芸人」の話とか、それこそ些事であろう。

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