2017年06月01日09時44分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-06-01 09:46:01

feedly という RSS 購読サービスを使い始めて4年ほど経つ。そこでは哲学関連のサイトやブログが配信している RSS を登録しているのだけれど、この4年間を改めて思い起こしてみると、PhilSci Archive の新着論文を眺めることが最も多く、それ以外は殆どリンク先を見た試しがない。せいぜい、Leiter Reports に掲載される訃報だとか、Daily Nous に掲載される「何のために哲学をやるのか」という論旨の正当化に新しいパターンがあれば記事を読みに行くていどだ。

もちろん、だからといって哲学のブログが不要だと言いたいわけではない。確かに、その大半は僕が RSS を購読してもいないクズみたいなアマチュアの殴り書きか、プロパーが書いていようと同じていどの殴り書きでしかない。しかし、論説を公にするための手立てとしてブログも一つの選択肢だし、そこに本質的な問題などない。

これまで学術研究者でもないアマチュアが地域や国を超えて(しかも小学生ですら手順を覚えれば実行できるていどの気軽さで)自分の論説を公表する方法など、人類の歴史において存在しなかった。せいぜい、家族に喋ったり、あるいは自分が暮らしている共同体の中で辻説法したりパンフレットを配るのが限界だったからだ。いまではアフリカの小都市に住んでいる人の日記を日本で見ず知らずの人間が読めるし、日本の限界集落で暮らすクソみたいな雑文書きのブログ記事をアメリカに住む経営者がジョークのネタとして読める。

確かに、これは一方では「世界規模の暇潰し」となりえるし、実際にこの地球規模のネットワーク通信を利用して、世界規模でゲームやアプリケーションに暇を潰す人々がいて、起業家や評論家やジャーナリストの馬鹿げたお喋りを「オンライン学習」と称して聞き流したり、物事の本質を全く理解できない表面的なノウハウのやり取りを「相互扶助」だの「オープン文化」だのと称して称揚している。しかし他方では、現実に世界規模での調査やプログラム開発の強力な手段を提供するプラットフォームにもなっているし、ビジネスや学術活動においても数多くの効率化をもたらしている。また、世界規模で愚かな人々が共感をもてるという事実は、その中身がどれほど馬鹿げていようと、或るていどの心の平安を人々にもたらしているとは言えるだろう(逆に、同じテクノロジーがテロリストやカルト団体の洗脳にも活用されているわけだが)。

しかし、いずれにしても哲学は本質的には人が自ら考えるという活動のうちに本質があり、他人とのやりとりや他人の成果に学ぶことは強力な自己批判力の養成に資するものであり、少なくとも誠実にものを考えるためには有効だとは言え、哲学にとって必要条件というわけではない。アカデミズムという共同体のポリシーや論文の書き方といった実務的なルールも、言語によるコミュニケーションに支障がないという最低限の条件がクリアされているならば、しょせんそれらは共同体の要員を「凡人」と仮定することによって必要とされるにすぎないフォーマットの類なのだと見做した方が、おかしな自意識に捕らわれて学問の方法や成果が歪まずに済む。

もちろん、僕はそうした「凡人」の一人として(しばしば derogatory のニュアンスがある冷笑を込めた言い方として誤解されるのだが、僕が「凡人」と言う場合には、僕が哲学者として凡庸だと言っているわけではなく、僕自身が支持する有限主義というか、単に僕は全知全能ではないという事実を指しているにすぎない。そして、その意味においては、「天才」であろうと凡庸な人間であろうと、それは生理的な能力において幾らかの程度の差があるにすぎない)、自らの関心や動機や意図に従って、しかしそれを妄信せずに哲学を続けていくにあたり、古典を読むことも必要だし、同時代の(少なくとも僕がバカだと思っていない)プロパーの成果に学ぶ必要は強く感じている。

しかし、やはりどう考えても、彼らがオンラインのサービスでやっていることの大半は、彼らの成果に殆ど関わりのない(あるいは関わりがあると仮定しても学術的には論旨の根拠として認めるわけにいかない)瑣末でプライベートな「生活」の記録でしかない。たとえば、論理学や哲学の研究者が ask.fm に何を書いていようと、僕らは、彼らが書いていることに何か正当化や論拠として使える議論があると見做して読むわけにはいかない(それは彼らの議論を学ぶという学術研究ではなく、彼らの生涯を記録する伝記作家の聞き取り調査みたいなものだ。申し訳ないが、僕は彼ら日本の凡庸な研究者たちの伝記を書いて後世に残すほど、彼らの業績に学術的なインパクトがあるとは到底思えない)。つまり、日本に限らず学術研究者が業績発表以外にやっていることの大半は、我々がスマートフォンでゲームをしているのと大差ない、暇潰しなのである。それが「哲学カフェ」のようなワナビーを巻き込んだイベントとして賞賛されていようと、あるいは頭でっかちな高校生に哲学の古典を教え込むのが早期教育だと思い込んでいようと、「哲学的に厳密な意味で」暇潰しなのである。もちろん、暇や退屈について愚鈍な通俗書を書くことも、明らかに暇潰しの一種である。(それが何かの役に立っていると思い込んでいるという意味では、どちらかと言えば悪質な暇潰しの類とすら言えるだろう。しょせん、マスコミや出版・広告業界に取り込まれてしまった学術研究者は、人間関係から言ってもそうした些事にかかわることと引き換えに名声を得るわけで、芸能人と同じである。昔から、こうした大学教員を「文化芸人」と呼んで蔑むのは、何もやっかみだけが理由ではなく、事実として彼らは芸人なのである)。

さて、では彼らのような人々の書くものを宇宙に存在しないも同然として切り捨てて「僕の哲学」だけをやっていればいいかというと、それもまた凡庸な人間(これは「凡人」とは違って derogatory のニュアンスがある。「無能な人間」と言い換えてもいい)の特徴としての傲慢さしか残らない可能性が高い。およそ社会性をもつ制度やシステムなるものは、人がしょせんは凡人であるという前提から出発して、どうすれば有限なる凡人の集団がうまくやっていけるかというテーマに沿って構築されるのが望ましいので、少なくとも学術研究としての最低限の水準を保ちたいのであれば、山村に引き篭もって独り言を呟くようなことをして生涯を終えるような真似は、或る意味では自己欺瞞ともなる。

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