Scribble at 2017-05-18 16:49:15 Last modified: 2018-01-31 10:36:50

アイコンアニメ絵の人の大半はお前らにモテる気無いと思った

https://twitter.com/ao_cchi_/status/864705988292526080

街頭インタビューのテレビ画面がキャプチャーされていて、「モテない男性の特徴は?」と聞かれて応えている女性が「ツイッターとかでアイコンがアニメの男」と言ってることにコメントしているのが、上記にリンクしたアンカーテキストだ。それはいい。はっきり言って些末なことだ。テレビなんて反応の遅いメディアが話題にしている時点で、彼女らを軽く凌駕する女性たちも、とっくの昔にアニメのアイコンの人々をフィルタリングしてしまっているだろう。つまり、テレビの取材なんてものは完全に遅延指標を示すだけのものであって、彼女らが嫌っていようと関係ないなどと言っても、その先に彼らの本当の(そんなものがあるのか?)価値を認めてくれる、それこそアニメの登場人物のように純朴な女性など誰も残っていない可能性の方が高いのだ。

僕はそれよりも、自分の娘の写真をアイコンにしてる人の方がどうかしてると思うよ。たとえば哲学担当取締役さんみたいに。幼子に意思表示するインセンティブも動機もないという生物的な状況を所与として利用するというのは、いまどきのプロパーに社会科学的なセンスがないのは仕方ないからプライバシー云々は別としても、そもそも哲学者がやっていいことなんだろうか。人文学としての自己否定だと思わないのかね。それが東大の科学史科学手哲学のレベルなのかなと思うと、やっぱり Google+ で何度も言及してきた「哲学ごっこ」のようなイベントをやってることもあわせて、ただの薀蓄垂れというか外国語秀才の集団に過ぎないのかなぁと思わされる。せいぜい都内の出版社と仲良くして、ところてん式に大学から退官してくたばる前に岩波あたりから著作集でも出して国会図書館にでも収蔵してもらえばいいのだろう。もちろん学問は結局は自分自身のためにやることなので、自分自身で納得したり満足していればいいのかもしれないが、しょせんは自意識にすぎないという事実を相対化できないままに天下国家や宇宙や世界を語るなんて恥知らずな真似を若者の前で演じるほど、僕は金や地位やパブリシティが重要だとは思っていない。

かつて栗本慎一郎さんは「学者はメジャーにならないとだめだ」と言っていたのだが、ではかつてはメジャーになった彼は何かを後世に伝えらえているのだろうか。甚だ疑問だ。学術研究者というものは、やはりどう考えても業績が先なのであって、それがあってこそ普及させる手段としてのパブリシティが利用できる。先にパンツがどうのこうの、郵便がどうした、暇と退屈がどうなどと派手な本だけを書いても、結局長期的な観点においては無であり、宇宙論的なスケールでは「何をやっても無である」という厳粛な事実を受け止めてこそ、われわれには哲学をする意思が生じるというものではないのか。

つまり、僕が日本の哲学プロパーの多くは英語秀才か、自意識に陥ってるだけか、あるいはせいぜい事情通みたいなものだと言ってるのは、自分自身のやることに哲学的(というか単に厳格な)思考を適用しようとしないという他人事のような態度に辟易させられるからなのだ。

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