2017年05月14日10時27分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-05-14 10:27:26

名よりも実を尊べとは古来から多くの故事成語や古典が語ってきた価値観ではあるが、名も実も人の世があってこそ意味を為すのであるから、この宇宙にいまのような生理的条件や社会的条件(どちらも個体にとっては所与だが、ひとまず本能と環境と言い換えてもよい)が「あって」こそ成立する価値観にすぎない。

さて、では「意味を為す」と言っても、そもそもどうして意味を為さねばならないと考えてしまうのだろうか。それに、そういう条件があってこそ意味を為すとヒトが判断できている「にすぎない」と相対化してみせたところで、いったいどういう観点なり視座を確保して眺めていることになるのか。ヒトがやっていることを相対化して「(表現して)みせた」ところで、何か客観的でヒトとしての生理的な限界を超えた、それこそ神のような視座に立てるわけでもないし、そもそも神という概念で語るしかない視座こそヒトの認知能力の枠内で設定されているだけの何かにすぎないのではあるまいか。

このように考えると、どうしても cognitive closure のような発想になってしまうのだが、そういう発想に「なってしまう」のはよくないと考えたいわけでもない。我々が、相対性理論を考え付こうと不確定性定理を提唱しようと、しょせん有限なる能力の個体でしかありえないのは、動かし難い事実である。そういう生理的に有限な能力しかない仕組みが概念としての無限を何らかの仕方で(我々においては「意味」として)運用するとしても、やはりその含意もまた有限でしかありえないので、我々は有限であるという事実から逃れることはできないだろう。しかし、それを何らかの欠点や制約として、いわば悲しむような思想には全く同意できない。それは単なる事実であって、喜んだり悲しんだりするようなことではない。我々は、主観的に自分という個体をどう思っていたり、この宇宙について何を考えていようと、所与の条件を認めて応じるしかないのである。

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