2017年05月12日13時24分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-05-12 13:27:27

しばしば「子供に質問されたらどう答えるか」という話題が雑誌で取り上げられたり、子供の素朴な質問を題材にして書かれた哲学の通俗書が出版されるのだけど、こういうものには昔から強い違和感を覚えるんだよね。特に制度的な擬制としてでも権威というしくみが必要だと思っている者にとっては、インターネットの普及によってアマチュアがプロを凌駕するといった下らない御伽噺を始めとして、権威を否定して「民主的に」全てを一から多数決で決めればいいとか、大人の意見と子供の意見を闇雲に並べて同等に扱うというのは、どうしようもない思想だと思える。それは、衆愚という簡単な反論だけでは片付かない、もっと深刻な誤謬に基づいているのではないか。

哲学(というよりも哲学的なアプローチ)の啓蒙という話題に戻ると、専門的な知識や専門用語を駆使したり理解しているというハードルを掲げて、一定の権威を設定するというのが学術における一つの伝統なり知恵だ。バカなお喋りを繰り返すアマチュアと問答していては時間の浪費であるし、同じ質問を繰り返す不勉強な連中も相手にしてはいられない。しかし、これはたいていの先生方がされる話だと思うのだけれど、哲学の難しさというのは、実は言葉の難しさとは何の関係もない。難解な用語を使っている場合は、そうとしか言えない何か特別な事情があるときだけで、本来はそうとしか表現できないのは無能の表明の筈である。そんなことに逃げてはいけないのだ。

だが、これと子供の素朴な質問とは全く違うということが理解されていないように思う。子供が「なぜ人を殺してはいけないの」と尋ねるとき、子供に「人」という言葉や「殺す」という言葉や「いけない」という言葉についての十分な経験や理解はない。それどころか、そういう質問をしなくてはいけないという強い動機すら、実は子供にはないと思う。逆にそうであると仮定して「子供と誠実に向き合う良い大人」として振る舞うことがよいというのは、我々の単なる自意識プレイにすぎず、そんなことを繰り返しても世の中は何一つ良くはならないのである。僕が高校生に哲学を教えるようなアプローチに強い違和感を覚えるのは、それが理由だ。人は、哲学をするよりもまず人として生きることができなくてはいけない。そういう目の前の(下世話だが)リアリティですら哲学を凌駕しているのであって、子供をしつけたり教育する理由はそこにある。僕が、馬鹿げた自意識によって「いかにも思想家っぽい」言動をするような連中を馬鹿にするのは、先人の奇行癖を真似てみせたり常識的な所作を無視することこそが哲学することであるかのような思い込みこそ、そういう人物の俗物性を証明するからだ。ごく普通の言葉でもって表現でき、そしてごく普通に生活している人物の中にも宿るような問であるからこそ、哲学の問題は内容として難しく、そして簡単には逃れられないのだ。そのような困難に対峙して根気よく付き合う覚悟のない人には、哲学をする必要はないし、他人に講じる資格もないと思う。

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