2017年03月13日13時35分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-03-13 13:35:04

University students demand philosophers such as Plato and Kant are removed from syllabus because they are white

まず端的に言って二つの点で学生は間違っている。

第一に、何を学ぶべきかは教員の責任で決めることであって(それゆえ責任が重いという自覚は必要だ)、学生の好き嫌いで決めることなど知識や学術の伝達という社会的なプロセスに対する冒涜である。もちろん無批判に恭しく学べなどと(小学校を開校しようとして頓挫したキチガイのように)言うつもりはないが、学問の基礎である教育の課程においては、まだ一個の独立した研究者でもない限りは、学生は教育される側の「知的被扶養者」であって、選択する権利などない。それに、大学に限らず我々は人としてどう学ぶかを学校へ行くかどうかなど関係なく考えたり決められるわけだから、シラバスで要求されている範囲の他は任意に決めて良い筈である。アフリカやアジアの思想なり哲学を重視したいのであれば、自らそちらも進んで勝手に学ぶだけでよく、それを大学は否定することなどできないし、実際に否定などしないだろう。そこで初めて、あまりにもシラバスの要求する内容が厳しすぎて他の勉強ができないようであれば、教員と相談すればよい。シラバスそのものを変更するというのは、他の学生や後から入学する学生にも影響のあることなので、それこそ自分たちが教員と同じていどの責任を負っていない限りは傲慢というものだろう。

第二に、アフリカ研究の学生がアフリカの思想を優先するというのは、自然なようでいて実は間違ったアプローチである。なぜなら、そもそも「アフリカの思想」というものを、比較思想や思想史の知見(それ自体も歴史的な制約からは逃れられないわけだが)を無視して設定するというのは、哲学や思想の教育どころか単なるイデオロギー教育である。それどころか、「哲学」や「思想」が、どういう意味においてであれアフリカやアジアで自足的に発生・成立・展開したという、何の根拠も証拠もないことを仮定している。これは国土や民族に誇りをもつ学生の要求というよりも、日本で言えばネトウヨやプサヨと呼ばれる、気軽に自分たちが思想や哲学や知識や学問にアプローチできるということと「自分たちが実際にそれらを一定のレベルで適正に扱える」ということを混同している人々の噴き上がりにすぎない。

それぞれの大陸なり地理的区分に「哲学」があって、自分たちは自らの出自や関心に応じて「そこでの哲学」を優先的に学ぶべきだという主張は、つまるところ歴史主義を仮定している。「哲学」という営みそのものがギリシアで興ったのはもちろん歴史的な偶然によるものだが、そこで「普遍性」を求めた思考が政治や文化あるいは地理や宗教などに制約を受けたものでしかなかったという歴史主義を貫徹するためには、それぞれの風土なり地理に「哲学」があると主張すると同時に、それらをそれぞれ「哲学」なり「思想」として認めるための基準が必要であって、従来の古典的なシラバスで行われている哲学史の授業というものは、何も白人だけが哲学をやっていたと強調するためではなく、他の思潮なり思考との比較材料を提供するためなのである。それゆえ、科学哲学を学んだ後にナバホ族の神話体系を一つの「思想」として研究してもいいし、そこで自分が学んだ科学哲学との比較や科学からの齟齬だけでネイティブ・アメリカンの「思想」を考えなければならないという必然性はないし、科学とナバホ族の神話体系をどちらも見通す観点なり着眼点を持つことが期待される。そうした自分自身の関心に沿って自分なりの着眼点を持つべきだということにすら気づかない学生は、哲学業界における「職業軍人」でしかなく、下らない記号操作の論文を大量に生産する役には立つが、はっきり言って哲学的には無能である。教員になる必要はないが、実社会でも学んだことを有効には役立てられず、せいぜい聞きかじり程度の専門用語をまくし立てて他人を煙に巻くのが関の山だろう。

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