2017年02月11日14時03分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-11 14:03:41

僕は哲学に携わっている者の最低限のスタンスとして、哲学というアプローチなり認知プロセスがまずもって自分自身にとって必要なのかどうかを問い続けなくてはならないと思っている。僕はそういうスタンスを維持することが、或る種の健全さなり誠実さを担保できると信ずる。

そして、いまのところは哲学というアプローチを必要とする人が現実に必要な限りでコミットすればよく、そのために必要な経済、文化、教育行政といった諸点での最低限のサポートは望ましいと思うが(それすら日本では満足にできていない)、誰にでも必要であるという(殆ど根拠が示されたことも満足に正当化されたこともない)理想を掲げる発想は、かつての「啓蒙」なるものがキリスト教であれ科学であれ特定のイデオロギーの強制に過ぎなかったのと同じであって、寧ろ制度的な大文字の哲学(タレスに始まりデリダに終わるアレ)や大文字の思想(岩波なんとか選集のようなアレ)を「啓蒙」の名によって押し付けることに他ならないと思う。

つまり、哲学をやるかどうかとか、やる必要があるかどうかなんてことは、それぞれが自分の事情に従って決めて判断すればいいことであり、それ自体を全ての人間に推奨したり、多くの人がそれを判断できないとか必要かどうかに思い当たらないからカフェやイベントで切っ掛けを与えようなどというスタンスは、端的に言って傲慢である。「啓蒙」というコンセプトをよくよく慎重に使わなくてはいけないのは、自らが啓蒙する側にいる筈だと思い込んでしまえる危険があるからなのだ。

このような話題は、しばしば他の場合にもあてはまる。つまり、自然科学者が科学哲学や科学史の素養をもつべきかどうかとか、哲学者が数学を学ぶべきかどうかという話題についても、僕は同じことを言っている。すなわち、必要があると思えば他の分野のアプローチを参考にしたり学べばよいのであって、当該の自分が研鑽している分野やテーマについて他の何かが必須であるとか、あるいは何かの裏書として要求してよい根拠など、誰も示せないのである。

但し、上記のような主張、つまり「哲学は、それぞれの事情において、やる必要のある人だけがやればいい」とも言える主張には、幾つかの注釈を加えておかなければ誤解を招くだろう。

例えば、この主張は一種のエリート主義を支持しているわけではない。「それぞれの事情」は文字通りの意味であって、哲学書をふんだんに買える家庭であるとか、哲学について勝手に学べる知性といった、何らかの特権を仮定しているわけではない。懇意にしていた人物が自殺したとか、自国で内乱が起きたとか、そういった「事情」でも全く何の問題もなく、人が哲学に関心をもつための理由になってよいし、そんなことの是非を他人が言う権利はない。(したがって、それなりの学歴をもつ人間が虚栄心のために哲学を学んであれこれ語ろうと、それはそれで自由である。)

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Google+ Twitter Facebook