2017年02月11日13時51分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-11 13:51:41

数年前まで、若者に哲学書が売れているらしいというお伽話が囁かれ、恐らくは左も右も信用できない浮動票層とか、あるいは不況下で行先を見失った人々の(就活としての)自己啓発いった、統計的に弾き出された「若者像」からの希望的観測を元に出版社側が勝手に宣伝して回っているだけのように思えるのだが、ともかく何を当て込んでか、哲学書や思想書と呼ばれるカテゴリーの出版物は、通俗書をはじめとして毎月のようにたくさん出ている。

これからは14歳からでも哲学をやるべきだとか、人には「哲学する権利」があるとか、あるいは現代のディオゲネスを自ら任じてか、夏休みがどうの、ジョークがどうの、クリティカル・シンキングがどうの、街場がどうのと書かれた紙くずを市場にばら撒くことも一つの実践であると、きいたふうな御託を組み立てることはたやすいだろう。

古典の翻訳や専門的な研究書だけを出版していたのでは、出版社そのものが存続できないので、出版社としても、本来の崇高な目的のためには売れる本も出しておかなくてはならないというわけだ。それに、思想書や哲学書が売れ線だと分かれば、哲学書や思想書を専門とする出版社だけでなく総合出版社からもいろいろ出てくるだろう。どのみちそうした出版ブームで市場には駄本が溢れるのだから、哲学書や思想書の出版を専門にやってきた出版社にしてみれば、少しでも読み手の劣化を防ぐ水準で、たとえ俗書の一つであろうと類書を出しておく方が保険にもなるだろう、などとそれなりに対策しようとしているのかもしれない。

しかし、長期的に見ればそれらはやはり打算の域を出ないと思う。

そして、そうした打算の根本においては、そもそもどうして人が「そうしたこと」に興味を持ったり気になったりするのかという点を殆ど考慮していないのではないか。一つの推測だが、既に書き手の側にすら、あなたは、そもそも哲学や思想にかかわる必要がないのではありませんかという質(レベルではなく)の研究者が増えてきているからなのではないかとすら思える。

たとえばロジック・ゲームあるいはレトリック・ゲームとしての「テキストデータ処理」だけで論文を書いているような手合いだ(こう無機質な言い方をしたからといって、なにも分析哲学や科学哲学の教員だけを指しているわけではない)。もちろん、アホでもなければ大学の哲学専攻に進むことが就職に有利だと思うような人はいないだろうし(残念ながら日本には formal ontology で就職できるIT企業はないと思うし、IT企業の一員である私からみても、モデル理論やグラフ理論しか知らない人間に企業人としてまともなサービス設計ができるとは思えないので、もちろんそんな哲学バカは採用したくない)、「でも・しか」で大学院に進学するような恵まれた人も多くはいないだろう。したがって、苟も研究者であるからには何らかの尊重すべき決断があったと言ってよい。

しかし、無理やり古典を読んでいるうちに哲学教師から求められている「問題意識」を捻り出せた幸運なだけの人々が、或る時点から自分は哲学をやるために生まれてきたのだと勘違いする可能性はある(笑)。そして、良い悪いを議論できるかどうかは難しいが、あとはそれなりの語学力や計算能力があれば、少なくとも語学力や計算能力に欠けていると自覚している僕よりも優れた業績は挙げられるかもしれない。

もちろん、哲学に携わる人間には何らかの「内的な(自発的な)必然性」がなければならないと言っているわけではない。きっかけが友達との会話であったり、親類の死であったりしてもよく、自分が普段から思ったり考えているところから創発的(あるいは呪術的)に自ずと生まれてくる必要などない。

しかし、少なくとも授業のレポートを書いているうちに「ロジックや哲学が面白くなった」といったきっかけで哲学(の教師)をやっているような人には、人間としての興味はあるが、哲学研究者としての興味はゼロである。反感をもってはいないが、つまるところマクドナルドの店員や、どこにでもいるの営業マンと同じ「人間」であるにすぎず、利害関係がなければ、そういう研究者から教えを乞うたり情報をやりとりする必要を何も感じない。

いまや「哲学研究者」を名乗って一般人の失笑を買わないのは、教育・就職斡旋サービスとしての大学で働く教師だけである。しかし、彼らが期待されているのは「カントのやさしい読み方」や「ヘーゲルなんとかかんとか概念のまとめ」を紹介したり、詭弁とディレンマのカタログを新入りの単純労働者へ叩き込んでいくような通俗的啓蒙や自己啓発セミナーではなかった筈であり、引き上げるに値する学生を引き上げるのが彼らの役目であった。もちろん、彼らのやっていることはスカイフックではないので、引き上げた場所がぜんぜん違う山の中腹だったということもありうる。それが「ぜんぜん違う山の中腹だった」かどうかの判断は、昔も今も学生自身の判断に委ねられる。

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