2017年02月11日13時41分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-11 13:41:17

『哲学入門』の末尾に書かれているように、戸田山さんは「哲学は自分の役に立つのか」と問いかけるのは悪い客であり、良い客は「自分は哲学を役立てられるのか(どうすれば役立つのか)」と問うのだと言っている。これは、(科学)哲学についてクラウスやホーキングやファインマンをはじめとする自然科学者たちが哲学に何かを勝手に求めては失望して市中にバラ撒いてきた「哲学の死亡診断書」についても当てはまる。

「哲学は私に何を教えてくれるのか」とか、あるいは書物全般に何か答えが書いてあるかのように接するような人々を、通俗的な書物の発行をこととする出版社と同じく「読者のモデル」と見做すのは、いやしくも哲学にかかわっているという自覚があればこそ、そろそろやめるべきだ。哲学の啓蒙なるものがあって可能だとして、それの最大の障害は現今の大学教育や出版物ではないのかという可能性も考えるのが哲学にたずさわる人間の責務というものだろう。それが出来ない限り、大学で何を教えていようと哲学的には無能だ。

しかし、戸田山さんの議論は哲学史なり古典解釈に埋没する圧倒的多数の善良で・・・しかし無能な大学教員にはインパクトを与えるだろうが、われわれのように最初から古典解釈という手法の意義を相対化している科学哲学のプロパーから見れば、あまりインパクトはない。更に私見では、戸田山さんの議論は歴史的再構成の価値を過小評価しているように思う。

古典を研究する哲学的な効用というものは、歴史的な薀蓄を身につけて、本質的には啓蒙・啓発の役にも立たず読み捨てられるだけのどうでもよい(、としか僕には思えない)通俗書を書けるように、編集者へのプレゼンスを確保することなどではない(笑)。ご苦労にも四国で通俗書を山のように書いて暇を潰している某氏とか、「教授」などと呼ばれている凡人音楽家とつるんで瑣末な市民運動にコミットしているスピノザ研究者とか、そうした人々が何を書いていようと、とどのつまり同じようなことはこれまで何百年と為されて大量の通俗書が刊行されてきた。そろそろ実験哲学などのアプローチも使って「『ソフィーの世界』だ、池田何某の自意識過剰な似非ソクラテス本だ、中嶋何某の神経衰弱本だ、土屋何某のジョークで語る哲学だと売れた雑書は色々あっただろうけど、これまでの哲学の啓蒙なんて本当に意味があったの?」と成果を問うてみる時期に来ているのではないか。(もちろん同じアプローチは義務教育や高等教育や公教育全般といった話題にも適用できる。)

歴史的再構成を探求する効用の一つは、一定の制約の元でものを考えるという限界や可能性を検証することだと言える。ものを考えるにあたって制約があるのは、現代においても同じだ。我々はいまや、過去の数千年の人類が享受してきた富とは比べ物にならないほどの豊かな生活を送っていて、一山幾らの庶民ですら iPhone のような高額かつ高機能なオモチャを弄んで労働せずに数時間もの暇を潰せる裕福な時代に生きているが、それだけで人類史の「最終到達点」に達しているかのような自意識を抱くとすれば、それは浅はかなことだろう。

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