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河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-10 18:17:20

ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する

こういう文章が学術的な成果として一定の水準を確保していなくても全く構わないわけだけど、はっきり言って、これの何が一体「解読」なのか僕には全く分からない。「解読」と言うよりも寧ろ、古典が主張している議論を現代の文脈においてピンハネしてるだけではないのか。通俗的な含意、つまり既存の素人解釈というか、分析哲学の学部生が書くレポートのようなレベルのストーリーを平たく書いたところで、それは実際に『哲学探究』を手に取った素人が受け取るものと同じレベルのものでしかないので、こんな文章は結局のところアマゾンのカスタマーレビューと同じである。『哲学探究』を一読した人間にとってはなんの価値もない「今北産業」だ。「解読」というものは、一読した人間にも教えるところがなくてはいけないということくらい、解読しか能が無い日本の哲学教員の端くれであれば理解していると思うが。

もちろん、この手の文章は、たとえそれがまともな「解読」になっており、何千年かかって同じことを繰り返していようとも、そんなことで世界が何も「よく」ならないのは歴史が証明してきた事実である(「良く」なのか「善く」なのか、あるいは別の何かなのかは分からないが)。この人物は、それこそ同じような暇つぶしをやってきた竹田さんや西さんらの弟子筋みたいなので、いま述べた事実からすれば、何をやろうとも「知的な意味での加法単位元」なのであるからして、死ぬまで小銭稼ぎでもして好き勝手にすればいい。

なぜ「知的な意味での加法単位元」なのかと言えば、こういうものが「哲学」であるとの誤解が広まることを恐れる必要もないからだ。つまり、正確な意味において「毒にも薬にもならない」から放置しても大丈夫なのである。『構造と力』や『ソフィーの世界』、あるいは白熱教室がどうした、郵便屋がなんだといった夥しい数の前例にも言えると思うが、そういうものを読んで専門の研究者になる人間などいないし、そういうものになっていない現行の日本のアカデミズムの哲学は駄目なのだと科研費を削る文科省の役人が出現したわけでもない。つまり、われわれアマチュアの研究者への影響も含めて、良くも悪くも全く影響がないのである。

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