2017年02月08日22時20分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-02-08 22:20:12

常々思っていることだが、宗教や思想というものは、死すべき存在である他はない人間なるものの自意識や感情を押さえ込むか、あるいは諦めさせるための理屈だとか錯覚を最大のレゾン・デートルとするのではないか。

そもそも、ヒトに限らず無機物や有機物の違いすら関係なしに、物体や生物は下らないことで即座に破壊されたり死ぬ。どれほど当人が家族を愛していたり、崇高な目的をもって生きていようと、バカがスマートフォンを片手に運転している車に跳ねられたり、マンガ的とも言えるほどの迂闊な人間が犯す操作ミスによって何かの下敷きになったり、それはそれは清々しいほどあっけなく壊れたり死んでしまう。我々の結末に正確な意味などないし、逆に我々が生まれてくる正確な理由もない。死んでゆく経緯に(たとえ自殺であろうと)意味がないのと同じく、生まれてくる経緯にも意味はないのである。そうした、実は避けているだけで誰もが圧倒的な説得力を感じてしまうあれやこれやの現実、つまり自分がどのみち死ぬということ、生まれてきた意味や死んでゆく意味などというものはないということを、刹那的な享楽に身を委ねたり、実はこれも刹那的という他はない仕事に精を出したり、その他に人類が生み出してきた夥しい数や種類の気晴らし同然の些事へ没頭することで、人は何か自分がそうしている理由をもっているかのように錯覚するというわけだ。

「いや、それは違う」と、凡庸な哲学教員は異議を唱える。通俗的ないしは漫画的な「哲学」においては、それでも人が自らの生き様や生涯の意味を問うことそのものに価値があるのだと言う。しかし、そういう「~することそのもの」に価値があるという予断そのものが、既に我々の否定する「それには意味があるはずだ」という錯覚ではないのか。つまるところ、それは言語表現として表出されリテラルデータとして(少なくとも当人の主観において)流通しているという事実だけで、それに「対応する意味」なるものがなくてはいけない、いやあるはずだという、一種の哲学的(あるいは言語的)マッチポンプである。

そろそろ、"epistemology naturalized" と提唱されてから 50 年になろうとしている(クワインの論文は 1969 年に発表された)。このスローガンを、哲学に科学を適用し科学に哲学を適用するという単純な相互作用あるいは循環といった大づかみな印象批評だけで情報処理してしまっていては、いつまで経っても現実の知的探求に効力を発揮しない。端的に言って、馬鹿げたセンチメンタリズムに引きずられた予断をもつ諸々の前提は踏み越えてゆかなくてはならないだろう。少なくとも、分析哲学やプラグマティズムというものにコミットしているのであれば、そうする責務があるように思う。

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