2017年01月27日10時48分 に初出の投稿

河本孝之Takayuki Kawamoto

Last modified: 2017-01-27 10:48:57

原因は何かを存在せしめたり、何かを引き起こす。この意味において、因果関係は強く直観に根ざしていて馴染み深い関係であり、この関係によって人は常識的な判断をコントロールしているように見える。しかし、哲学ではよくあることだが、この直観に深く根ざしている馴染み深さによっては、因果関係に関するどんな哲学的な説明も、明瞭かつ明確で、しかも広く受け入れられるようになるわけではない。もちろん、それはそうであろうと試みられなかったからではない。過去 30 年くらいに渡って、数多くの哲学的な説明が試みられたし、その展開のペースは逆に加速しているのである。

Laurie Ann Paul and Ned Hall, Causation: A User's Manual, Oxford University Press, 2013, p.1.

因果関係をさしあたってどのように記述するかという点で、たいていの人たちは最初に幾つかの論点について、少なくとも読者に予断を(与えたいと思っているならともかく)与えないように配慮しようとする。たとえば、“causation” とは「関係」なのか、それとも「作用」なのか、あるいは「性質」なのか。そして、原因と結果の結びつきが関係であるとしても、それは原因が結果を「引き起こす」ような関係なのかといった論点だ。特に後者の論点は、原因と結果を必ずしも近接関係として定式化するとは限らない社会科学では、無視できないだろう。

上記でポールとホールは、因果関係を “deeply intuitive and familiar” だと述べているが、それは認知能力としての馴染み深さゆえなのか、それとも我々の社会において因果関係を想定する(あるいは因果関係が埋め込まれた)言語表現を使うことがありふれているからなのかという問題を分けて考える必要はあるのだろう。ヒュームを始めとする経験論の古典解釈にも(あるいは認識論全般にすら)当てはまることだと思うが、この議論は慎重にやらないと循環論に陥る。

哲学的な説明が過去 30 年くらいに渡って試みられてきたという箇所は、もちろん上記のような書き方だけでは分析哲学や科学哲学という範囲ですら過度の単純化とも言えるので、一定の注釈が必要だろう。1980 年代前後からと述べているので、おおよそデイヴィッド・ルイスの counterfactuals による分析やデイヴィッド・アームストロングの What is a Law of Nature? あるいはナンシー・カートライトの How the Laws of Physics Lie といった業績が出てきて以降としてよいだろう。しかし、それらの業績以降という条件が区切り方として妥当だとは思えないし、そもそもそういう区切り方をする必要があるのかどうかについても疑問がある。哲学のよくある概説書のように、「古代ギリシアの時代からこのかた」式の説明では凡庸だと考えたのだろうか。

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