『医学と仮説』を読む

河本孝之

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初出: ,
最終改定:

要旨

津田敏秀さんの『医学と仮説』に関するノートです。

はじめに

医学と仮説―原因と結果の科学を考える 岡山大学で疫学を教える津田敏秀さんが執筆された『医学と仮説―原因と結果の科学を考える』(岩波書店、岩波科学ライブラリー 184、2011; 「科学ジャーナリスト賞2012」一次審査通過作品)について、京都大学の伊勢田哲治さんが Twitter や自身のブログで論評されたり、津田さんと伊勢田さんが作家の川端裕人さんのブログで意見を交わされた経緯は、科学哲学に関心をもっている方々の多くが既に御存知かと思われます。『医学と仮説』をめぐる一連のやりとりについて、僕は一定の興味をもってフォローしてきました。そこで、津田さんと伊勢田さんのやりとりも終息してきたように見えるので、僕なりの見解を再考したりまとめるためにも、『医学と仮説』を丹念に読み直すこととしました。少しずつ書き足している覚え書きのようなものとしてご笑覧ください。

この本について、あるいは伊勢田さんと津田さんのやりとりについて、調べた限りでは以下のような他の論評もあります(当ページを更新した際に再確認したところ、消失しているページもありました。取り消し線が引いてあるリンク先はページが存在しないので、無視してください。なおブログやページが移転しただけなのかどうかについては、いちいちフォローしていませんので、ご了承ください)。なお、2ちゃんねるの科学哲学スレや Twitter 上の個々人の発言を無視しているわけではなく、とりあえず目を通してはいますが、ここでは考慮しないでおきます。特に、検索していると Twitter のログやコピペ、あるいはアウトリーチやサイエンスコミュニケーション関連で無内容の雑感がゴミのように湧いてくるのは辟易しました。また、アマゾンを始めとする EC サイトや書評サイトで書かれたレビューも無視します。

以下、本稿の注意点です。

目次

第1章

実験と観察

本章のメインテーマは「実験(研究)」と「観察(研究)」の意義であり、或る事象どうしに因果関係を推定するにあたって「実験(研究)」が必要不可欠であるという意見を、津田さんが「思いこみ」と評していることの当否です(『医学と仮説』では、この「思いこみ」が国内の医学研究者に見られると指摘されていますが、哲学の議論としては考慮する必要がないポイントだと思います)。そこで、まず「実験(研究)」と「観察(研究)」について『医学と仮説』から僕が読み取った内容をまとめておきます。

なお、『医学と仮説』の p.11 でも言及されていますが、実験においても生起した事象を「観察する」という表現が使えてしまってややこしいので、実験で生起した事象を装置や人の知覚で受容すること、あるいは調査や報告により統計データを集めることまで含めて、「測定」と表現しておきます。また、以下では「実験」や「観察」という言葉を使う場合もありますが、これは一般的な意味で使っており、「実験研究」や「観察研究」とは区別する必要があります。後者の二つは “experiments” および “observational study” という、疫学や統計学における「研究方法(アプローチ)」の意味で使う場合もあり、この場合は疫学や統計学における一定の手法あるいは理論を含意しています。

マウスに発癌物質を注射するような事例で説明しうる介入的な configuration を施した人為的な曝露による実験研究からは、後に起きる出来事を測定して、曝露と病気に因果関係を推定すべきかどうかを検討するためのデータを得ます。次にデータを評価するにあたり、configuration の正否が検討されなくてはなりません(データを得る前に configuration を検討できるのは実験する当人だけです)。なぜなら、configuration を用意するということ自体が因果関係を推定するにあたってのフレームとなり、また研究者が前提する知識や理論というフレームによっても configuration は規定(制約)されているからです。したがって、研究者のもつ前提を洗い出して configuration の用意にどのていどの影響があるかを吟味したり研究者の予断を排除するために疫学でも数多くの知見が蓄積されており、数々の認知バイアスを避けるよう提案がなされているのは、津田さんが総合研究大学院大学で 2005 年に発表した「疫学入門」という講演の記録でも容易に理解できます [津田, 2005] 。

他方、食中毒の報告を集めて原因を特定するような事例で説明しうる観察研究では、病気が起きたという報告を集めることと、発病の条件を個々の事例について調査することによりデータを得ます。もちろん観察においても、調査したデータの評価や、それにもとづく因果関係の推定には数多くのモデルが提案され、統計学の成果を援用するにあたってもさまざまな手法があり、また報告を受けたり調査を実施するにあたって認知バイアスを避けるための提案もあります。病気が発生した状況を調査する場合に、個々の事例であらゆる物理的な特性を記録しておくわけにはいかないので(とりわけ食中毒などの場合は原因を早急に特定しなくてはなりません)、ここでも調査に臨んで用意されている上記のような数理モデルや統計調査法等のフレーム(何を調べて、何を無視するか)の正否が検討に値するテーマとなるでしょう。

医学において実験研究は必要不可欠か

さて、第1章の論点を一つ取り上げてみて煎じ詰めると、「医学において実験研究は必要不可欠なのか」という問いになります。そして『医学と仮説』の冒頭に紹介されているヘリコバクター=ピロリと胃ガンの関係を調査するという国立がんセンターの介入研究というケースでは、当時の日本の医学(全体かどうかは分かりません)では実験研究の成果が「直接的証明」だと考えられており、国内の医学研究者の中には直接的証明がない限りは何も明言したり政策提言できないと考える人がいたとのことです。そのような人々にとっては実験研究が必要不可欠だと見做されていると津田さんは説明し、以下のような一節を述べています。

[...] 冒頭に示した国立がんセンターの研究について、違和感をもたれた方もいらっしゃるだろう。実は、その違和感の通りである。つまり、「すでに人における発がん物質として明らかになっているなら、わざわざ多額の研究費を使い多くの人を巻き込んで研究をする必要はないのでは?」と思われたはずだ。

[津田, 2011: 7f.]

ヘリコバクター=ピロリと胃ガンの因果関係が「明らかになっている」かどうかについて、実験研究の成果が必要不可欠だと見做し、それゆえ観察研究の成果だけでは因果関係を確信できないと考える人々がいるという話をしているにもかかわらず、「明らかになっているなら」どうして実験研究の必要があるのかという違和感を持ち出して、論証すべき主題であるはずの実験研究の成果が余剰だという印象を与えるのは(余剰だからといって不要だとは限りませんが)、「因果関係の推定には疫学研究(観察研究)の成果だけで十分な場合がある」と言うことと同じであり、したがって「実験研究は必要不可欠なのか」という本章の問いにも「不可欠ではない」と答えてしまっているのと同じことになります。

もちろん、ここでは単に結論を先取りしているだけであり、論証として示しているわけではないかもしれませんが、結論が最初からある文章ならそういうものとして示すべきではないかと思います。「これらの『間違っている人々』は、どうして間違いを犯すのか」という文章は、説明ではあるかもしれませんが、少なくともここではそれらの人々が「間違っているかどうか」を問題としているのですから、最初から津田さんと結論を同じくしていないかぎり、説得力のある議論とは言えません。

更に追記しておくと、川端裕人さんのブログで津田さんと伊勢田さんのやりとりがあった中に、「必要不可欠」という表現について言及されている箇所があります。津田さんは「『実験が必要でない』と、『実験が必要不可欠ではない』とは、ずいぶん異なります」と書いていて、伊勢田さんは「論理的にはあまり違いませんが、気持ちの上での強さが違うというのはわかります」と書いているわけですが、このような理解の違いが生じているのは、恐らく哲学では「必要」と書いたら必要条件のことと理解する傾向があり、したがって「不可欠」と書こうが書くまいが論理的には同じだという印象になるからではないでしょうか。したがって「不可欠」という言葉は、伊勢田さんにとっては足を踏み鳴らすのと大して変わらないかもしれず、津田さんにとっては「不可欠」の一語を加えてこそ始めて「絶対の条件」といった意味合いが出てくるのだということなのでしょう。今回は津田さんの著作を取り上げているので、以下では念のため「必要不可欠」という表現のまま進めます。

自然科学の一つの目的である因果関係(原因)の推定

そして上記の問い、つまり「医学において実験研究は必要不可欠なのか」という問いに答えるための説明や議論は続き、「人における因果関係の解明に実験が必要なのか、他に何が必要なのかという問題へつながっていく」[津田, 2011: 10] とされます。このあたりから因果関係についての説明が登場します。なお、この引用では「実験」と表現されていますが、これは「実験研究」という言葉を導入する前の段階で書かれている文章だからであり、意図としては医学の研究において一定の手順や方法あるいは理論を含意している「実験研究」という意味だと思います。

そもそも自然科学の主要な目的の一つとして因果関係の推論がある。

[津田, 2011: 10]

いささか細かい点ですが、津田さんの議論の主旨を考慮すると、「推論」は「特定」または「推定」としておいた方がよいと思います。統計学では「既知のことから未知のことを知ろうとすること」という意味合いがあるのは分かります。したがって「推論」という一定の研究プロセスについて語っているのだろうと推測はできますが、思考のプロセスという意味合いもあるため、科学の研究の目的が推論という思考プロセスそのものであるという誤解を招く表現を使うのは好ましくありません。疫学なり医学の目的は形式的に妥当なそういう意味での推論を行うことだけではないはずです。確かに英語では “make an inference” とか “draw an inference” のように「何かを考えて見出した成果としての考え」という意味合いで “inference” を使いますが、日本語では「推論」をそのような「成果としての考え」という意味では使わず、そのような考えを得るためのプロセスないし手順(OALD では “an act of forming an opinion” という意味の方で、つまりは “reasoning”)という意味に理解されることが多いと思います。

或る食中毒の原因を探る際に色々なことを推論するというのは説明として問題がないと思いますが、公衆衛生を担当する団体職員や科学者の目的は、そのような推論を使いながら原因(原因を特定するための因果関係)を特定して、実際の事例では原因として特定した事象が起きない(あるいは発生確率を下げる)よう対策を施すことにある筈です。もちろん、上記の「因果関係」が「推定しようと試みているところの(まだ分からないが探すべき)因果関係」ではなく、「推定されたところの(既に高い確証が得られて、考えうる認知バイアスのリスクもないと認定され、強力な反証も見つかっていない)因果関係」という achievement の表現なのであれば、それを援用して推論することは、achievement として妥当とされた推論がデータによっても確証されるときには、とりもなおさず原因の特定なので、意味は通ります。しかし、このように短い表現では、そう受け取らない読者も多いでしょう。

そして、これは後の話になりますが、津田さんは因果関係に関する「反実在論」と思われる見解を支持しているように見受けるので、たとえ「推論」を「推定」に置き換えたり、「原因の特定」という表現を使ったからといって、因果関係が「本当にそこにある」といった実在論的な結論を引き出すために推論や推定をしているわけではないという点を注記しておく必要があります。更に、因果関係を推定するだけでは、理論値あるいは推定値としての理論的な結論を出したに留まるため、実地において具体的な施策(行政の介入を含む、現実の行動や措置)というアクションを始めるために必要な「因果関係の確立 (establishment)」というプロセスも考慮しておかなくてはならないでしょう。したがって、因果関係を理論的に推定するという段階で話を止めてしまうと、津田さんの文脈を考慮すれば不十分かもしれません。

川端さんのブログを久しぶりに読んでみたら、僕が過去に当サイトで公開していた本稿を津田さんに一読していただいてそうで、まず御礼申し上げます。川端さんのブログにコメントを追加してもよいのですが、あそこで続けるのもどうかと思うので、『医学と仮説』を論評した本人として、ここで津田さんのコメントを引き受けておきます。

ところで、私が非常にショックだったのが、この方まで伊勢田先生と同様に「津田さんは因果関係に関する『反実在論』と思われる見解を支持しているように見受けるので」と誤解されていた点です。私自身は、あの本で、パラダイム論以降の科学哲学の話題を議論するつもりは毛頭ないことは、本にも川端さんのブログでもご披露した通りです。従いまして、実在論か反実在論かについては全然考えてもいないし言ってもいないわけです。それにもかかわらず、こういうコメントになるのはなぜか私には理解できません。複数人にこんな誤解が生じたのは、当然、私の説明不足であるわけですが・・・。ただ、今の科学哲学関係の方は、冷戦時代のソ連側かアメリカ側かみたいに、どうしてもで実在論か反実在論かで色分けしないと気がすまないのではとも思ってしまいました。[津田さんのコメントより]

一つ急いで注釈すると、僕が『医学と仮説』について「反実在論」と評しているのは、グローバルな科学的実在論(scientific realism)というトピックでの立場を指しているのではなくて、因果関係についての反実在論(causal antirealism)です(僕はグローバルな文脈で扱われているときの実在論という論争においては実在論を支持していますが、因果関係は、たとえ確率的な概念として定式化された事柄であっても、実在しないという学説も支持しています)。したがって、僕は津田さんの見解を「反実在論」と解釈しているときに、津田さんが科学者として「理論は実在を記述するものではなく、観察可能な現象を説明するものである」とか「自然法則は科学のコミュニティにおける暫定的な規約にすぎず、それを超える何かが本当にあるわけではない」といった見解をもっているなどと解釈しているわけではありません。

僕は津田さんが『医学と仮説』の中で realism vs. antirealism という科学哲学の議論をしているとは思っていませんし、ましてや realism vs. nominalism という伝統的な哲学の議論をしているとも思っていません。というか、津田さんの上記のようなコメントを読んで面食らうのは、僕らが何のために科学者が実際に書いたものや、形式的に定式化し直した理論、あるいは科学史を学んで科学哲学をやっているのか、殆ど理解していただいていないのではないかということです。川端さんのブログにも、津田さんと伊勢田さんの議論が食い違っているという指摘がいくつか書かれていますが、その食い違いの一つは、恐らく哲学研究者が「科学哲学」というアプローチによって何をしているのか、正確に理解していただいていないという点に理由があるのかもしれません。

僕は、津田さんがご自身で自分を「因果に関する反実在論者」だと思っているかどうかを議論しているわけではありません。ものを書いたご本人が或る特定の哲学的な立場や理論をご自身で自覚して支持したり援用していたかどうかとか、或る立場を意図して主張したかどうかとか、そういうことを僕らは哲学において問題にしているわけではないのです。例えば、アインシュタインはスピノザの著作を読んでいて、彼自身はスピノザが述べているような「神」なら信じると言ったそうですが、「そういうことを言った」という証拠があろうとなかろうと、またアインシュタインがスピノザの著作や神についてどういう理解をしていようと、彼が世界なり神についてどう考えていたことになるかという議論は独立しています。もちろん、このような「合理的再構成」は、或る科学者が述べている見解をベースに定式化するものなので、科学史あるいは科学者ご本人の所説を無視して議論できることではありませんが、科学哲学は科学者が世界をどのように考えているかを報告したり記述するために存在するわけではないのです。

なお、上記のコメントでは「どうしてもで実在論か反実在論かで色分けしないと気がすまないのでは [sic]」と困惑されているようですが、僕らは手持ちの分析に使える物差しは、実在論であろうとホーリズムであろうと他の何であろうと、使える色分けはすべて使います。ただし、それがレッテル貼りになってはいけないので、こうして細かく議論を分析する必要があると思っています。もし、或る論点について A, B という互いに背反する見解を除いては他に(論理的に)採りうる見解がないと言える場合、或る方の書いた内容が A であるか、さもなければ B であるかと問うことは妥当でしょう。A, B の他にも C や D といった見解を採りうる余地がある(論理的に可能である)という議論があって、初めて「ものごとは単純ではない」という次のステップに進めるのであって、「人の考えることは単純に割り切れるものではない」などとヌルい話をしていても仕方ないと思います。また、分析哲学や科学哲学の研究者が関心をもつのは一つの見解(合理的再構成)の論理的構造であって、個人として色々な意見のゆらぎや不整合があっても、そんなことは気にしません。われわれは伝記作家ではないのです。

「自然科学」について

そして、因果関係の推定(上記のとおり、僕は「推論」という表現のまま議論するのは困難だと思うので、「推定」と言い換えますが、これでも統計学の意味合いからは「母集団について何らかの値を求めること」という狭い意味に理解されるかもしれません)が自然科学の主要な目的の一つであるという言い方だと、自然科学のあらゆる分野がこの目的をもっているという理解の仕方を排除できないため、そのような目的をもっていないと思われる分野があればどうなるのかという疑問が生じます。この点について、津田さんは p.24 において「数学は、自然をほとんど相手にしていないので、自然科学と言うよりもむしろ言語学のように私は考えている」と書かれていますが、数学が言語学に近いという印象の理由を「より正確に、より簡単に、情報を伝えることを追究しているように見える」と説明されていて [津田, 2011: 24]、これは言語学の特徴づけとしてはいささか道具主義的で実用的な側面でしか捉えておらず、説得力がないと思います(この点について、伊勢田さんの「医学と仮説(つっこみその2)」の指摘は妥当と思われます)。

恐らく、現今の多くの大学では数学科が理学部に属していて、大雑把には「科学」の一部と見做されており、もっとあからさまには「理系」の学問だと考えられているという事情から、津田さんはこのような説明を追加したのだろうと推測できます。そして、わざわざ数学を自然科学から除外することにより、「自然科学は因果関係の推定を目的とする」という説明は、「他にも目的はあるが、自然科学たるもの、それが化学であろうと生物学であろうと物理学であろうと医学であろうと、因果関係の推定が一つの共通の目的である」という見解を示していることになります。

なお、津田さんが「医学において実験研究の成果は必要不可欠ではない」という主張を支持したいのであれば、数学を自然科学に含めておいて、自然科学の目的や方法として数学も許容するような条件を設定する方がよいと思われます。なぜなら、そうすれば、「数学も自然科学であり、自然科学としての目的や方法を共有している」と論じることこそが、「自然科学としての医学において、実験研究の成果は必要不可欠ではない(数学のように実験の成果が必要不可欠ではない分野も自然科学なのだから)」と主張するための根拠として使えるからです。また私見では、この論点は因果関係の議論を持ち込まずに展開できると思います。

因果関係について (1)

因果関係とは、原因と結果の関係である。自然科学における因果関係の推論とは、原因と考える要因(出来事)と結果と考える出来事との関係を、実験か観察で得られたデータを用いて推論することである。[...] 因果関係自体は直接認識できないので、「推論」がついて回る。つまり、原因と結果に関するデータを得て、そのデータに基づいて思考し、因果関係があるのか因果関係がないのかを推論するのである。さらに、あるとすればその因果関係はどの程度の影響を与えるものなのか、それは無視できるのか、対策が必要なのか、どの程度役に立つと言えるのか、商品化可能なのかを考えたりもする。

[津田,2011:10f.]

因果関係は原因と結果の関係です。これは全く正しいです。そして後に続く文章も、「推論」という言葉の使い方に疑問があるという点を除けば(つまり、「推論」という言葉を僕なりに辻褄の合うようにパラフレーズして読めば)、おおむね妥当な説明だと思います。そもそも、『医学と仮説』は疫学という分野の教養書でもあるため、概念として厳密な区別だけに拘っていては論旨が伝わりにくくなるでしょう。

ここで改めて、僕が津田さんの問いを「医学においては、因果関係を推定するにあたり、実験研究というアプローチは必要不可欠なのか」という問いに限定している理由を述べておきます。因果関係の推定を目的とする研究分野を自然科学全般から医学に限定した理由は、医学が自然科学の一分野だからです。そして目的を「因果関係の推定」に限定した理由は、因果関係の推定は「自然科学の主要な目的の一つ」であり、医学が自然科学の一分野である以上、自然科学の目的の一つとされる因果関係の推定は、医学の目的の一つでもあると考えられるからです。そう考えられないなら、津田さんが『医学と仮説』のような本を書く理由はなくなってしまいます。(なお、伊勢田さんのブログや川端さんのブログを読んでいる方に注釈すると、ここは伊勢田さんの「医学と仮説(つっこみその1)」で指摘されている、「実験」および「動物実験」の語句が適用される範囲の違いという話題とは別の論点なので、混同しないようにしてください。)

ロスマンらの所説について (1)

次に、ロスマンらの所説を取り上げます。『医学と仮説』では、「日本の研究者は、人間への適用を念頭にそして実際に人間のデータがはっきりと存在していても、なお実験(特に動物や細胞などを用いた実験)が必要であるとしばしば感じてしまう」[津田, 2011: 13] と評して、それがどうしてなのかを説明するにあたり、ロスマンら(他の編者はグリーンランド、ラッシュ)の著作を引用しています。なお、ケネス・J・ロスマン(Kenneth J. Rothman)はボストン大学にある公衆衛生大学院の疫学教授で、“causal inference” をはじめとする方法論に関する論文や著作も手がけており、ロスマンの著書の邦訳として『ロスマンの疫学―科学的思考への誘い』(矢野栄二, 橋本英樹/訳、篠原出版新社、2004)があります。また、サンダー・グリーンランド(Sander Greenland)は にある公衆衛生大学院の疫学と統計学の教授であり、グリーンランドも因果関係や因果推論に関する方法論上の著作があります。もう一人のティモシー・ラッシュ(Timothy L. Lash)は Forest 大学の大学院で疫学(特に癌の疫学)を専門としている教授です(なお、三人のポジションは2012年9月現在のものです)。彼らの見解は『医学と仮説』で展開されている津田さんの議論にかかわっているので、まず Modern Epidemiology を取り上げておきましょう。

Vigorous debate is a characteristic of modern scientific philosophy, no less in epidemiology than in other areas (Rothman, 1988). Can divergent philosophies of science be reconciled? Haack (2003) suggested that the scientific enterprise is akin to solving a vast, collective crossword puzzle. In areas in which the evidence is tightly interlocking, there is more reason to place confidence in the answers, but in areas with scant information, the theories may be little better than informed guesses. Of the scientific method, Haack (2003) said that “there is less to the 'scientific method' than meets the eye. Is scientific inquiry categorically different from other kinds? No. Scientific inquiry is continuous with everyday empirical inquiry --- only more so.”

[Rothman et al,2008:24]

これは Modern Epidemiology の “Impossibility of Scientific Proof” と題する節の冒頭です。なお、上記と殆ど同じ文章がロスマンとグリーンランドの二名だけで書かれた論文にも見られるため [Rothman and Greenland, 2005]、上記の箇所はこの二人がリードして書いていると思われます。しかしながら Modern Epidemiology はそもそも共編・共著ですし、Modern Epidemiology の第2版では上記の三名が執筆者としてクレジットされていますが、第3版では第2章 “Causation and Causal Inference” の執筆者として、上記の三名に加えて更に Charles Poole も加わっています(チャールズ・プールはノースカロライナ大学で疫学を専攻する準教授であり、彼が担当する講義には「疫学における論理と確率論理」というものもあります)、したがって、ここではロスマンとグリーンランドだけに特定せずに「ロスマンら」としておきます。

さて上記の文章は困ったことに冒頭部分から問題があり、スーザン・ハークの見解をパラフレーズしている箇所からして、“divergent” とされる科学哲学の見通しを問うておきながら、すぐ次の文で科学という活動が広大な集団参加のクロスワードパズルを解くようなものだと論じており、読み手に混乱を引き起こす文章だと思います(なお、いまのところ Modern Epidemiology の本文は、一部だけが公開されている Google Books で確認しただけなので文献表を見ていないのですが、ロスマンらが引いているハークの見解は、恐らく Defending Science (2003) からだろうと思います)。

もちろん、科学哲学として理解する科学のすがたが “divergent” であることと(それはとりもなおさず科学哲学という業界の実態が “divergent” であることと同じであるということなのでしょう)、科学という活動がクロスワードパズルを大勢で解いているようなものだという理解は、それがスーザン・ハークという「科学哲学者の」見解である以上は、区別して扱う必要があります。なぜなら、クーンからこのかた、彼の見解に影響されて科学を「パズル解き」として表現する通俗書は腐るほどありますが、他の科学哲学者ならば科学を「そういうもの」としては理解していないかもしれず、そもそも科学哲学(による科学のすがた)が “divergent” だと言われる理由は、そこにこそ求められるだろうからです。もし殆どの科学哲学者が瑣末な議論においては千差万別の意見を表していても、「科学という活動」についてはスーザン・ハークと意見を共にしているというなら、科学哲学という学問が科学の理解について “divergent” であるという概観は示せないでしょう。対して、たとえロスマンらが「些細な点で色々な見解があることを指しているのだ」と反論したからといって、些細な論点の違いが個々の論点として単独に重要だと考えるのはよいとしても、それゆえに些細でない論点での一致を無視してよいなどという理由にはなりません。(なお、僕は些細でない論点についても多くが一致しているとは思わないので、科学哲学が “divergent” であるという表現を額面どおりに受け取るなら、もちろん肯定します。)

スーザン・ハークの “crossword puzzle”

というわけで、更に深入りすることとなりますが、スーザン・ハークの見解を見ておきたいと思います。少なくとも手元にある彼女の Evidence and Inquiry (expanded edn., 2009) を見る限り、この人は “crossword puzzle” という表現がたいそう好きなようで、索引には 20 を超える使用箇所が記録されています。これは本人も意図しているようであり、第2版の序文で次のように説明しています。

And foundherentism also sidesteps a familiar foundationalist objection to coherentism, that talk of mutual support among beliefs only thinly disguises a reliance on a vicious circle of reasons. Can there be legitimate mutual support, I wondered, and if so, how exactly does it differ from a vicious circle? The analogy of a crossword puzzle came to mind as an example of undeniably legitimate mutual support. Then I realized that the clues to a crossword could be seen as the analogue of experiential evidence, and already-completed entries as the analogue of reasons; which soon led me to the multi-dimensional account of evidential quality developed here. How reasonable a crossword entry is depends on how well it fits with the clue and any other already-completed intersecting entries; how reasonable those other entries are, independent of the entry in question; and how much of the crossword has been completed.

[Haack,2009:14]

なお、“foundherentism” というのは the theory of knowledge(または epistemology。ちなみに、これらを「認識論」と訳すのは、いまや無理があると思います)における “foundationalism”(基礎づけ主義)と “coherentism”(整合主義)の折衷としてハークが使っている造語であり、少なくとも分析哲学・科学哲学において膾炙している言葉ではなく、専門用語ではありません。(私見では、藁人形としてグロテスクさや違和感を与えるためならともかく、自説の呼称としてこのような言葉を使うのは、「まだまとめきれていない」という自虐的な意図があるのかもしれませんが、感心しません。)

上記のハークの一節を読む限り(ロスマンらが参照しているのは Evidence and Inquiry ではないという但し書きは必要ですが)、「既に確定した(already-completed)」表現との整合性(つまりクロスワードパズルをやっているときに、周りの語に照らして、つまり縦横に読んでみたとき違和感がないかどうか)によって、或る経験的なデータや理論を受け入れてよいかどうかが決まるという説明は、ロスマンらの文章で「証拠が緊密に繋がり合っているところなら、そこには信じるに値する理由があるけれども、僅かな情報しかないところでは、理論は洗練された推測よりもマシといった程度のものかもしれない」という説明に照らし合わせると、おおむね主旨として一致していると思います。そして「おおむね主旨として一致している」というだけで十分でしょう。そもそもこれは「比喩の使い方として正しいかどうか」の話であって、どれほど自己増殖的に厳密な議論を展開しようと、その厳密さは科学という活動の本質に関する哲学的な考察にとって殆ど価値がありません。なぜなら、比喩の使い方としての正しさに関する基準が、その比喩が科学という活動の本質を正しく言い当てているかどうかを判断するための基準と同じである保証はないからです。寧ろ科学哲学者としてのわれわれは(もし epistemological な議論に関心があればの話ですが)、それら二つの基準が同じであるためにはどのような条件が必要なのかを議論しなくてはならないはずです。

つまりアナロジーに訴える手法は認めてもよいが、アナロジーの善し悪しは、本来の目的である科学の理解と無関係な基準によって正否を判断したり形式的に洗練されても、そこに哲学的な価値はないということです。メアリー・ヘッセのような科学とアナロジーを研究した人の議論を参照しなくてはいけないかもしれませんが、正直言ってアナロジーに訴える個別事例そのものの正否という議論にどれほど哲学的な価値があるのか、僕には確信がありません。もちろん、朝永振一郎さんの「光子の裁判」を題材に物理学者が(大まじめに量子力学の理論として)何らかの見解を立てることは不可能ではないでしょうし、科学哲学でも水槽に入った脳やゾンビをはじめとする愉快な「哲学的おもちゃ」は数多くありますが、思考実験に限界があると知ることも大切でしょう。

全くの私見として言わせていただければ、科学の営みそのものを「クロスワードパズル」だの「ジグソーパズル」だのといった比喩で説明しても理論的に徒労であるばかりか、哲学的には有害だと思っています(そして、Defending Science でハーク自身が述べているように、ハークは科学という営みそのものをクロスワードパズルだと言っているわけではありません)。僕はこの手の「図式的なフレームワーク思考」とも言うべきものは単に偏見を固定化する役割しかないと思っており、ひとたびこうした比喩に引きずられ始めると、今度は比喩に合うように経験を解釈したり理論を定式化するといった倒錯に至ると考えます。例えば、何らかの論点に関して提唱された複数の学説の「位置取り」を、人は簡単に座標系のような図にプロットしますが、四つの象限のうち三つまでしか提示されていなければ、凡庸な人々はそういう図式のもとで、論理的に可能だという理由だけをもってして、残る象限にどのような学説を想定すべきかという暇つぶしを開始してしまいます。科学哲学に限った話ではありませんが、このような暇つぶしに端を発するテクニカル(あるいはレトリカル)なだけのつまらない研究に時間を割くのは、願い下げです。実際、ハークも「アナロジーはアナロジーでしかない」と Defending Science で述べています。[Haack,2007:58]

その次にハークの著書から引用されている一節は、科学の方法は日常的に経験や観察に訴える方法と比べて、何か特別で別のものというわけではないという話をしており、目で何かを見るということと科学的な測定のあいだには、精度や測定範囲の違いはあれど、原理的な違いは無いということです。もちろん、このような所説について科学哲学の議論として吟味はできますが、それはロスマンらの所説を一通り概観し終わってからにします。なお、ハークの著書を参考にした文章は、Modern Epidemiology の第2版には見られません。したがって、津田さんが参照している第3版になって追加された部分です。なぜ第3版でハークの見解を参照し、引用を追加したのかは分かりませんが、ひとまずロスマンらの所説の傍証として使われているのではないかという理解に留めておきましょう。

更に、Defending Science(2nd edn., 2007)を入手したので参照しておくと、次のように書かれています。

Scientific evidence, like empirical evidence generally, normally includes both experimental evidence and reasons, and both positive evidence and negative. It is complex and ramifying, structured --- to use the analogy I have long found helpful, but only recently found anticipated by Einstein --- more like a crossword puzzle than a mathematical proof.

[Haack,2007:58]

ロスマンらが、上記のような見方を踏襲しているのは明らかでしょう。また、先に述べた Evidence and Inquiry の論述と上記の引用とが同じ主旨で書かれていると言ってよいので、実際に Defending Science に目を通してみた結果も変わりません。ただしハークは「アナロジーはアナロジーにすぎない」と述べており、科学の研究プロセスそのものがクロスワードパズルを解くようなものだと主張しているわけではないと、ペーパーバック版の序文でも述べていますし、上記のすぐ後にも述べています。彼女がクロスワードパズルのアナロジーを使ったのは、証拠や根拠が妥当であるかどうかを評価する際の見方を喩えただけであって、科学の研究プロセス全体について、クロスワードパズルに該当する特徴があるかどうかなどという話をしているわけではありません(それは、すぐ上の僕の注釈でも書いたように、哲学的にはどうでもよい自己増殖的な「暇つぶし」であって、科学哲学の研究に値しないと言ってよいでしょう)。したがって、ロスマンらが “the scientific enterprise is akin to solving a vast, collective crossword puzzle” と書いている箇所は(強調は河本)、ハークの意図を取り損ねた極論と言ってよい筈です。

ロスマンらの所説について (2)

Perhaps the most important common thread that emerges from the debated philosophies is [+ Hume's legacy] that proof is impossible in empirical [- empiric] science. This simple fact is especially important to observational epidemiologists, who often face the criticism that proof is impossible in epidemiology, with the implication that it is possible in other scientific disciplines. Such criticism may stem from a view that experiments are the definitive source of scientific knowledge.

[Rothman et al,2008:24]

上記の引用は第3版からのものですが、第2版の文章から第3版で削除された箇所は、削除された文言を “[+ ]” で補い、第2版の文章を第3版で置き換えた箇所は “[- ]” で第2版の文言を補ってあります。赤字で示された範囲が、第2版との異同がある第3版の文言となっています(強調のために色を変えているわけではありません)。つまり「[+ Hume's legacy]」とあるように、経験科学において証明が不可能であるという見解は、第2版ではわざわざ「ヒュームの遺産」だと説明されていたことがわかります。

まず上記のうち、「経験科学において証明は不可能である」という箇所を取り上げてみましょう。これを第2版では「ヒュームの遺産」だと述べ、別の論文で殆ど同じ論旨を述べた箇所 [Rothman and Greenland,2005:S147] では “18th century empiricist David Hume’ s observation that proof is impossible in empirical science” と述べられています。つまり、第2版を出した後もロスマンとグリーンランドは「経験科学において証明は不可能である」という見解をヒュームの思想と結びつけていたわけですが、第3版の内容を見る限り、ヒュームと入れ代わるように(先に見たとおり)スーザン・ハークという現代の科学哲学者を引き合いに出しています。しかし、次の段落で明らかなように、ヒュームに言及している箇所が全く無くなったわけではありません。

観察研究の成果に訴える疫学者(observational epidemiologists)を批評する人々は、実験研究の成果こそが科学的知識の「決定的な(definitive)」根拠なのだから(つまり、「実験研究の成果こそが因果関係の証明なのだから」という含みがあると言いたいのだろう)、観察研究の成果は証明になりようもないが、他の研究原則(つまりは実験研究)の成果なら証明になるのだという前提をもっている。ロスマンらはこの前提が間違っていると言うために、およそ経験科学において証明などというものは不可能だという見解に訴えています。実験研究であれ、それ以外の手法や原則であれ、自然科学の知識は「決定的な」根拠にもとづくのではないという主張から、実験研究の成果が観察研究の成果よりも優位にあるのだという意見を否定するわけです。この主張は、実験研究であれ観察研究であれ、そこで測定されたデータは、或る因果関係を予想して立てられた理論にとって(肯定的であろうと否定的であろうと)「決定的」と言えるものではないという見解です。観察研究の成果だけでなく、実験研究の成果として何かが測定されようと、決してそれが或る事象どうしの因果関係を疑問の余地なく確定するわけではないということです。

繰り返しになりますが、ロスマンらの “experiments are the definitive source of scientific knowledge” という表現は、「経験科学が獲得する知識」を仮定しています。つまり、ここで “scientific knowledge” という語句は、先に因果関係の「推論」という津田さんの表現について述べたことと同じく、既に achievement として獲得されたもの、あるいは達成すべき目標として仮定されています。そしてロスマンらは、実験の成果(医学に照らすと実験研究の成果)が経験科学の獲得する知識の “definitive source” であるという主張を否定しているので、経験科学の獲得する知識が実際にあると仮定し、実験はそれを獲得するための決定的な根拠ではないと言っていることになります。しかしこれだけだと、他に決定的な根拠があるという論理的な可能性を残しますが、“proof is impossible in empirical science” という表現が冒頭に出てくるため、上記引用の前半部分の主旨としては、「どのような方法によるのであれ、経験科学が獲得する知識の決定的な根拠はない」と主張していることになります。

もちろん、これらの所論には幾つかの論点を指摘できます。まず、ロスマンらの文章では “proof”, “source” という言葉が使われています。“source” には「源泉」や「原因」という意味もありますが、ここでは “proof is impossible in empirical science” という主張に関連して使われているので、「根拠」と訳してあります。つまり「決定的な根拠」という表現によって、それが数学で与えられる証明のようなものだという含みがあるものと理解しています。すると、ロスマンらのいう “empirical science” は、津田さんが「自然科学」と述べているものと同じなのかという問いを指摘できるでしょう。“empirical science” という表現は、通常の意味では数学のような “formal science” を除外して、実験・観察・推論という方法を使うアプローチのことだと考えられるので、経験科学において知識を獲得する方法は、数学のように形式的証明を得るための手続と同じではないという主張は(そういう定義のもとでは)理屈として通ります。他方、津田さんの “natural science”(自然科学)という言葉は “formal science” としての数学を除外する意味合いがありますから、それを知っている人にとっては特に問題がないかもしれません。しかし、「自然科学」と「科学 (die Wissenshcaft)」を殆どの人が区別しない場合には、慎重に使わなければいけない言葉だと思います。とりわけ、津田さんは『医学と仮説』の中で数学を自然科学というよりも言語学みたいなものだと書いており、「理系」「文系」というつまらない区別にしがみつく人が多い日本では、津田さんの表現は「数学は科学ではない(数学は文系だ)」と言っているのと同じ意味になってしまいます。

ロスマンらの所説について (3)

That (- Such a) view is mistaken on at least two counts. First, the nonexperimental nature of a science does not preclude impressive scientific discoveries; the myriad examples include plate tectonics, the evolution of species, planets orbiting other stars, and the effects of cigarette smoking on human health. Even when they are possible, experiments (including randomized trials) do not provide anything approaching proof and in fact may be controversial, contradictory, or nonreproducible. If randomized clinical trials provided proof, we would never need to do more than one of them on a given hypothesis. Neither physical nor experimenal science is immune to such problems, as demonstrated by episodes such as the experimental “discovery” (later refuted) of cold fusion (Taubes, 1993). [- The cold-fusion debacle demonstrates well that neither physical nor experimental science is immune to such problems (Taubes, 1993).]

[Rothman et al,2008:24]

「経験科学としての医学や疫学は、数学における証明のごとき決定的な根拠によって知識を獲得するわけではなく、実験研究の成果であってもそうした決定的な根拠ではない」という主張を維持するため、ロスマンらは二つのポイントを挙げています。ひとつめは “the nonexperimental nature of a science does not preclude impressive scientific discoveries” という回りくどい言い方になっていますが、要するに “does not preclude” = “include” として理解すれば、科学というものの中で実験にかかわりのない或る部分にも、数々の科学的な発見があるということになるでしょう。しかし、これまで見てきた文章を考慮すれば、“a science” と表現してしまうと “empirical science” の意味ではなくなるので、数学のような formal science を排除できなくなってしまいます。すると、もともと実験を主たるアプローチとしていない数学上の成果は全て “the nonexperimental nature of a science” に含まれてしまい、「科学というものには数学の証明のように実験に頼らない成果もある」(“a science” に “natural science” だけでなく “formal science” としての数学が含まれると理解すれば当然のことでしょう)というありふれた主張となってしまいます。ロスマンらが挙げている “the myriad examples” には、どさくさでタバコと健康という事例も含まれていて、伊勢田さんは個々の事例を取り上げて論評されていますが、ここでは(哲学の観点から検討するのであればなおさら)そのような事例をあげつらうよりも、論旨の不整合を指摘した方がよさそうです。

次に、“Even when they are possible, experiments (including randomized trials) do not provide anything approaching proof and in fact may be controversial, contradictory, or nonreproducible” 以降は、伊勢田さんの「つっこみその1」でも言及されている箇所なので、まず津田さんの訳を引用します。

たとえ実験が可能であっても、ランダム化試験(RCT)を含む実験は、証拠に迫る何ものも提供しないし、実際、議論の余地があり、矛盾する主張があり、再現不可能なのだ。

[津田,2011:14]

伊勢田さんが指摘するように、“proof” を「証拠」と訳しているのは誤訳だと思います。ロスマンらは、経験科学が数学のように観察や実験のデータなく形式的論証だけで当否を吟味できるものではないという主張を展開しており、実験であれ観察であれ、どんな成果をあげようと数学の証明に比すべき決定的な根拠を与えるものではないと述べているのであって、そもそも数学は経験的に得られる「証拠 (evidence)」に訴えて証明しているわけではありません(「証明」を数学者の思考プロセスであると考えて、数学論文がその「経験的な証拠」であると解する余地はありますが、津田さんがそのような見解を支持しているとは思えません)。また、伊勢田さんの指摘と同じく、津田さんの訳では “may be” が抜けているため、ロスマンらが「どのような実験についても議論の余地があり、矛盾する主張(解釈)があり、再現不可能なのだ」と主張しているように読めてしまうのは不適切だと思います。

ただし、このように訳されてしまった文章が「科学者も科学哲学者も受け入れないような極端な実験否定論の文章」であるという伊勢田さんの指摘も不適切だと言えるでしょう。仮にロスマンらが “may be” を書かずに「どのような実験についても議論の余地があり、矛盾する主張(解釈)があり、再現不可能なのだ」と主張したとしても、それは “definitive source” となりうる実験などないという主張とは整合しており、何も実験そのものを否定するわけではないからです。(もちろん、伊勢田さんが実験というものを議論の余地がないか、または矛盾する主張がないか、または再現不可能ではないと考えるならば、それを全て否定している上記の表現を「実験否定論」と呼ぶのは内的妥当性としては理に適っています。)

次に、“If randomized clinical trials provided proof, we would never need to do more than one of them on a given hypothesis” の訳を見ておきます。

もし、RCT が証拠を提出するのならば我々は同じテーマで二回以上 RCT を行う必要はないだろう。

[津田,2011:14]

ここでも、「証拠」という訳語は不適切です。それから後半部分については、寧ろロスマンらのもともとの表現が不適切ではないかと思います。ロスマンらの表現では “If randomized clinical trials provided proof [強調は河本]”(正確に訳すと「もし複数回のランダム化臨床試験が証明を与えるならば」)となっており、これは後半の表現の主旨(「ランダム化臨床試験を何度も実施する必要はないだろう」)を考慮すると、「そもそも RCT が証明を与えるとすれば何度も実施する必要がないはずなのに (“never need to do more than one of them”)、ランダム化臨床試験を何度もやっているのはなぜなのか。それはそもそもランダム化臨床試験が “definitive source” とはなり得ないからであって、RCT が決定的な根拠として証明を与えるという考え方が間違っているからだ」という論旨が “trials” の一言によって先取りされてしまっており、もともとのロスマンらの文章が不適切であると言えるでしょう。私見では、“If only a randomized clinical trial provided proof, we would never need to do more than one trial on a given hypothesis”(「たった一度のランダム化臨床実験で証明が与えられてしまうなら、我々は与えられた仮説について何度もランダム化臨床試験を実施する必要などないだろう」)とでもした方が適切ではないかと思われます。

上記の “trials” を、複数の研究者による追試という現実的な事情を含むと考えれば、複数形でも構わないと思えます。つまり、最初に何らかの結果が見いだされた試験から、追試を経て研究者コミュニティから一定の信頼を得るという過程を “trials” という表現で表していると解釈できます。この場合、「証明」という言葉は、研究者当人にとって当該の結果が「これこれを証明するもの」だと考えられているかどうかという意味で使われるわけではありません。また、このように解釈すれば、当該の結果について「それ以上の追試は必要ない」という意味でロスマンのように表現してもよいと考えられるでしょう。しかしそれでも、確立された事柄について「追試」が全く必要ないという主張は、自明ではありません。

そこで、上記の点についてロスマンさんに以下のような質問をしました。(2012年9月26日、Kenneth J. Rothman さんへの私信)

“If randomized clinical trials provided proof, we would never need to do more than one of them on a given hypothesis.” (ME, p.24)

This part was inserted in 3rd edn. and it shows an argument that RCTs does not provide proof as the “definitive source” on a given hypothesis, and you (and other responsible authors) use a phrase “randomized clinical trials provide proof.” But if we made multiple trials whether they provide proof, there is a room for thinking (to readers) that we had to do trials, not only a trial, so the later (“we would never need to do..”) part might be a trivial conclusion under a condition that any data (from experiments or observations) would not be the definitive source in empirical science. I think this will be modified as “If only a randomized clinical trial provided proof,” to say the later part as a natural conclusion.

その返信として、単にあしらわれているだけという感じもしますが(笑)、とりあえず以下のように同意を示してもらっています。(2012年9月27日、Kenneth J. Rothman さんからの私信)

Thank you for your thoughtful comment. I agree with you. --Ken Rothman

一度の臨床試験でよいかどうかという点が重要と思われるのは、特に医学や疫学においては津田さんが言及している IARC(国際がん研究機関)の評価基準をはじめ、医学や疫学あるいは公衆衛生学を専攻する人々にとっては周知の「診療ガイドライン」にも見られるとおり、曝露と疾病の因果関係を推定するために実験や観察の成果をどのくらいの「重み」がある成果として評価するかという基準が提示されているからです。もちろん、IARC も掲げている EBM (evidence-based medicine) において採用される「重みづけ」の基準が全く議論の余地を残さないものかどうかは、僕には判断できません。しかし少なくとも、たった一度の RCT が曝露と疾病の因果関係を推定する或る仮説の正否を(肯定的にであれ、否定的にであれ)決定してしまうのであれば、EBM において単独の RCT よりも更に高く評価されるメタ分析などの手法には根拠がなくなってしまいます。(つまり、「うまくやれば」一回の RCT で済むということになってしまえば、メタ分析や複数回の RCT を実施するよりも、「どうやれば一回の RCT でうまくいくのか」を突き止める方が合理的だからです。)

ロスマンらの所説について (4)

Some experimental scientists hold that epidemiologic relations are only suggestive and believe that detailed laboratory study of mechanisms within single individuals can reveal cause-effect relations with certainty. This view overlooks the fact that all relations are suggestive in exactly the manner discussed by Hume. Even the most careful and detailed mechanistic dissection of individual events cannot provide more than associations, albeit at a finer level. Laboratory studies often involve a degree of observer control that cannot be approached in epidemiology; it is only this control, not the level of observation, that can strengthen the inferences from laboratory studies. And again, such control is no guarantee against error. In addition, neigher scientists nor decision makers are often highly persuaded when only mechanistic evidence from the laboratory is available. [- ]

[Rothman et al,2008:24]

上記の引用で「[- ]」としてあるのは、赤字部分が第2版には全くなく、第3版で全て追加されているためです。さて、上記の箇所は『医学と仮説』でも一部が引用されていますが、『医学と仮説』では先に見たロスマンらの文章よりも前のページに出ています。また、ここも伊勢田さんの「つっこみその1」で言及されており、『医学と仮説』の論述が「自然科学としての医学において実験研究の成果は必要不可欠ではない」という主張の論証として示されているという前提に立てば、科学哲学の観点からも関心をもつべき主張と見做せるため、詳しく見ておきます。

まず前半は、疫学上の関係は因果関係を示唆するだけであって、個体内部のメカニズムに関する詳細な実験研究こそが原因と結果の関係を確実にあらわにするのだという、実験研究を重視する研究者の信念を紹介しています。そしてロスマンらは、ヒュームの議論(最も慎重かつ詳細に個々の出来事を分析しても、最も細かいレベルにおいてさえ或ることと別のことに関わりがあるということ以上の何も言えない)によれば、正確には「どんな」関係であろうと因果関係を示唆するだけであるという点を、それらの研究者は見逃していると言います。ここで、「ヒュームの議論」として括弧内に展開した部分は “Even the most careful and detailed... albeit at a finer level” の訳ですが、ヒュームの解釈として訳せば “association” は「(観念)連合」となるでしょう。しかし、ここでの主旨は(そして科学哲学においてローティの言う合理的再構成を採用して古典の「成果」を援用する場合も同じだと思いますが)歴史的な経緯を説明することにあるわけではないので、敢えて「関わり」としました。そして、この部分には大きな問題はないと思います。

次に、“Laboratory studies often involve...” 以降は『医学と仮説』で訳出されているので、まず津田さんの訳文を参照しましょう。

実験研究は、しばしば、観察者の操作管理(著者注:介入)をある程度必要とする。これは疫学(この場合、観察研究)では達成できない。つまりこの操作管理のみが実験研究からの推論を強化できるのである。しかし、現象観察の程度が強化されているわけではない。そして、そもそも、このような操作管理は、観察の誤りを防ぐ保証にはならない。加えて、実験研究からのメカニズム的証拠だけでは、科学者も政策決定者も決して説得されはしない。

[津田,2011:13]

注釈の表記方法や句読点の使い方について細かい点は気になりますが、拘らないでおきます。

拘る人のために注釈しておきます。特に丸括弧は原著者が原文の中で但し書きするために使うものなので、訳者が訳文中に注釈を入れる場合はブラケット([])か亀甲括弧(〔〕)を使うのが標準的だと思います。それに、はじめに出てくる訳者つまり津田さんの注釈には「著者注:」と書かれていますが(これも「著者」がロスマンらを表すのか津田さんを表すのか不正確な表現だと思います)、次の津田さんの注釈には何も書かれていないので、「(この場合、観察研究)」という括弧内の但し書きがロスマンらのものなのか、それとも津田さんのものなのか、まさに「この場合は」文脈で分かるわけですが、他の箇所で同じように丸括弧を使っても文脈で分かるとは限りません。

“it is only this control, not the level of observation, that can strengthen the inferences from laboratory studies” の部分は、伊勢田さんの「つっこみその1」と同じく、「観察のレベルではなく観察者による介入こそが、実験研究を通じて推論を強化しうる」となるでしょう。「現象観察の程度が強化されているわけではない」と、“not the level of observation” を単独の文として訳してしまうと、ロスマンらが「介入が観察のレベルを強化するのかどうか」と問うて、それを否定しているように読めてしまいます。

それから、「実験研究からのメカニズム的証拠だけでは、科学者も政策決定者も決して説得されはしない」(“neither scientists nor decision makers are often highly persuaded when only mechanistic evidence from the laboratory is available”)の試訳としては、「実験室からメカニズムに関する証拠が得られるというだけでは、科学者や政治家はたいていあまり納得しない」となります。“neither... nor” で否定されているのは “often highly persuaded” であり、“highly persuaded” の状態が “often” = “many times", “commonly” ではないと言っているのであって、“never” という意味ではありません。また、先に津田さんが “proof” を「証拠」と訳した点について述べましたが、もしここで使われている “evidence” を「証拠」と訳して、先の “proof” も「証拠」と訳したままにしてしまうと、“definitive source” としての確実な(そして実験研究であれ観察研究であれ到達できないとロスマンらが主張している)「証拠」に、実験研究でメカニズムを探求している状況では到達できてしまっていることになります(なぜなら、そういう「証拠だけでは」科学者や政治家は納得しないと言っているのですから、とりあえず「証拠」は獲得できていなくてはならないでしょう。もしそれが “proof” であるなら、それを示されても政治家や科学者が納得しないと述べるとき、ロスマンらは何を意図していることになるでしょうか。彼らが、“proof” だけでなく利害関係も成立していなくてはならないといった、STS 系の主張を教科書で展開しようとしているとは思えません)。津田さんは十分にご承知と思いますが、疫学で使われる “evidence” という語は、実験研究や観察研究によっては決して獲得できないと言われる、形式だけで導かれる「証明」という意味ではないはずです。

ロスマンらの所説について (5)

All of the fruits of scientific work, in epidemiology or other disciplines, are at best only tentative formulations of a description of nature, even when the work itself is carried out without mistakes. The tentativeness of our knowledge does not prevent practical applications, but it should keep us skeptical and critical, not only of everyone else's work, but of our own as well. Sometimes etiologic hypotheses enjoy an extremely high, universally or almost universally shared, degree of certainty. The hypothesis that cigarette smoking causes lung cancer is one of the best-known examples. These hypotheses rise above “tentative” acceptance and are the closest we can come to “proof.” But even these hypotheses are not “proved” with the degree of absolute certainty that accompanies the proof of a mathematical theorem. [- ]

[Rothman, et al.,2008:24]

ロスマンらによれば、科学という活動からもたらされる全ての成果は、それが疫学のものであれ、他の分野のものであれ、それらをもたらした活動に何の間違いがなくとも、それらはせいぜい自然についての記述を暫定的に定式化しただけのものでしかありません。そして自然に関する我々の知識が暫定的であるというとき、それが意味しているのは、それらを実際に当てはめて何かをしてはいけないということではなく、それらを実際に当てはめて何かをする場合には、他人の目に晒し続けるだけではなく、自分自身からの批判や疑いの元に置かれ続けていなければならないということです。ここで「自分自身からの批判や疑い」というポイントにも言及しているのは、恐らく実験や観察における認知バイアスを発見しうるとすれば、それは実験や観察を実施した当人による吟味も重要だからでしょう。そして “Sometimes etiologic hypotheses enjoy...” 以降は、すべて第3版で追加された文章です。主旨としては簡単であり、タバコと肺ガンの因果関係に関する仮説のような、きわめて高度の確証を得ている仮説であっても、数学の定理を証明するときのような絶対的な確実さとでも言える度合いを伴って「証明された」とは言えないというわけです。

ここまでの議論のまとめ

かなり遠回りとなりましたが、本筋に戻りましょう。第一章のテーマとして、「医学においては、因果関係を推定するにあたり、実験研究というアプローチは必要不可欠なのか」という問いを先に挙げておきました。これについて、ロスマンらの見解を詳しくみてゆくと、Modern Epidemiology に書かれているのは、たとえ全く誤りのない実験研究の成果であっても、それは数学における定理の証明に比すべき厳密かつ決定的な証拠となるわけではないということであって、実験研究というアプローチや実験研究によって得る成果が曝露と疾病の因果関係を推定するために必要不可欠なのかどうかを議論しているわけではありません。したがって、ロスマンらの著作は「必要不可欠なのかどうか」という点について特に何も言っておらず、津田さんの議論とは論理的に独立していると言えるでしょう。つまり、津田さんが「医学にとって実験研究の成果は必要不可欠だ」と主張しようと、「医学にとって実験研究の成果は必要不可欠ではない」と主張しようと、ロスマンらの著作に訴えて「実験研究の成果は決定的な証拠と言えるほどのものではない」と議論できるわけです(否定する場合は「それゆえ実験研究は必要不可欠ではない」と言えますし、肯定する場合は「しかし実験研究は医学の研究方法の中で最善の方法である」と言っても矛盾しません)。更に、ロスマンらが仮に「実験研究の成果は数学の証明に比すべき決定的な証拠である」と主張していたとしても、それだけでは(上の主張に加えて決定的な証拠を得るアプローチが「複数あってはいけない」という別の主張を正当化しないかぎり)観察研究の成果もまた決定的な証拠であると言いうる可能性を否定できないため、たとえロスマンらの主張を逆の内容に仮定しても、「実験研究の成果が必要不可欠であるかどうか」という問いについて、自明の結論は得られません。

すると、津田さんが『医学と仮説』の 13 ページでロスマンらの文章を引用した直後に、

つまり、実験が必要不可欠であると考えても実質的メリットはなさそうなのだ。

[津田,2011:13]

と結論づけているのは、何を意味しているのでしょうか。この点について、川端裕人さんのブログに書かれている津田さんのコメント(伊勢田さんの「つっこみその1」に対するコメント)を参照すると、

実験が不可能もしくは、実験が成功していないのに、実験を待ったり強行しようという実例を挙げて「実験は必要不可欠ではない」と言っているのに、「実験ができる場合には必要不可欠だと考えることに」という条件付けによる主張はおかしいですし、本の趣旨をねじ曲げています。本の趣旨をねじ曲げるような「つっこみ」は避けてください。実験が可能な場合での必要性まで私が否定しているようにとられます。

となっています。つまり、津田さんは「つまり」の一言で、ロスマンらの引用ではなく、国立がんセンターの研究の失敗にはじまる第1章の文章全体を受けようとしているわけです。これは、伊勢田さんが更に指摘しているように、

「つまり」で要約されているのは直前のロスマンらからの引用であり、この引用の中には「実験が不可能もしくは、実験が成功していないのに」にあたる限定はありません(原文にもありませんが、それはそもそもの目的が違うので当然ではあります)。津田さんがピロリ菌の具体的な事例を念頭に置いて書いておられるのは当然ですし、読者もそれは分かっているわけですが、この節の議論の文脈において、この一文そのものにそういう限定がついているようには見えない、というのが問題なわけです。

という見方が正しいと思われます。「つまり」とか「したがって」とか “So” とか “Therefore” とか “That is,” で、それまでの文章全体を受けるのであれば、そのような文は章末になければなりません。文章の途中で、それまでの議論全体をわざわざ受けて何かを述べる必要があるなら、その箇所で当該の章を区切るのが自然であり、もし章節の途中で総括するなら「これまでの議論をみると」といった概括するための表現が必要でしょう。ロスマンらの著作から言えるのは、上記の後に出てくる「実験が科学知識を決定的にもたらすという考えがそもそも誤っている」[津田,2011:13] ということです。

では、ロスマンらの著作からは、実験研究が必要不可欠であるかどうかについて自明の結論は出てこないという点を仮定すると、津田さんは要するに上記の一言で何を言っているのでしょうか。もちろん、津田さんが第1章で「実験研究の成果は医学や疫学にとって必要不可欠ではない」と結論づけたがっているというのは分かります。そして、伊勢田さんも含めて哲学をやっている人の多くは、underdetermination やデュエム=クワイン・テーゼのような論点を知っていようといまいと、津田さんの「言いたいこと」を支持すると思います。しかし、我々は(何も「科学哲学や哲学の観点から」などと勿体ぶる必要などなしに)二、三の実例を紹介してもらうだけではなく「論証」を求めているわけです。仮に、津田さんが知り得た実例から、「実質的メリット」として予算や人手や時間に応じて期待されるほどの成果が上がっていないという何らかの結論を引き出せるとしても、それは単なる結果論であって、医学の methodology という議論をしているステージではどうでもよい話です。(なぜなら、「方法論そのものは間違っていないが、日本では実験の実施精度や科学者のスキルが低いからだ」といった反論が可能だからです。我々が求めているのは、いま僕がここで「日本では云々」と思いついて書いたていどの反論を許さない、説得力のある議論であって、個人的な経験にもとづく「EBM が流行っているらしい」といった印象批評ではありません。)

ということで、『医学と仮説』の 13 ページにある一節を言い直すと、「つまり、医学や疫学において因果関係を疑問の余地なく特定するために、実験研究が必要不可欠であると考え、強弁し、実施したところで、時間や人手や予算を費やしたり、医療倫理の点から見ても疑問の余地が残る割には、大して効果的な成果は上げられないかもしれないし、これまでには全く成果の出ていない失敗もあったのだ」ということではないでしょうか。しかし残念ながら、そこまでの文章全体を(誤訳や論旨の不鮮明なところはともかく)受け取って考えてみても、このように言いうる方法論としての論証は、第1章の文章からは得られないと思います。

保留にしたポイント

以下の各項は、第1章の他の箇所で気付いたポイントですが、保留しています。

冒頭に戻る

第2章

まず冒頭では、日本の医学においては実験研究の成果が優先されていて、あたかも実験による成果が科学の決定的な証拠であるかのような「思いこみ」が医学・疫学研究者にあるのは、そうした医学・疫学研究者が「因果関係」を理解しておらず、ひいては科学の基本的な知識がないからだと説明されています。そこで「科学」という言葉についての歴史なり辞書を参照した解説が続きますが、数学に関する説明を除けば、啓蒙書としてはおおむね許容できる内容だと思います。伊勢田さん(と戸田山さん)は「広辞苑攻撃」という評し方をしていますが(僕らも大学時代に「西部邁論法」と呼んでいたレトリックの一つです。正式には critical thinking やディベートの本で、「権威に訴える詭弁 (ad verecundiam)」として紹介されているでしょう)、辞書に記載されている語源や語義に訴える議論は初心者向けの記述としては目くじらを立てるようなものではないと思います。

科学の目的

さて、科学についての辞書的な話が終わって、次に津田さんの見解に移ります。

次に科学の目的を考えてみよう。時代とともに変化し続ける科学だが、自然科学の目的はだいたい決まっている。科学を用いて人間が自然を観察し、うまく取り扱うことだ。自然には人間も含まれる。「うまく行くこと」を第一目的としたのは、十九世紀終わりから二〇世紀初めにアメリカが生んだ哲学、プラグマティズムである。科学の世紀である二〇世紀の前段階もしくはほぼ同時期に、プラグマティズムが出現していたことは重要だ。プラグマティズムの哲学者ジェイムスは、実生活における有用性こそが真理であるとした。プラグマティズムは、功利主義、実証主義(論理実証主義)、自然主義の傾向を持つ哲学であり、これは科学と相通じる、というより科学そのものだと思える。この目的をここでは功利原理と名付けよう。

[津田,2011:26]

まず、伊勢田さんが「つっこみその2」で指摘しているように、「実証主義(論理実証主義)」という書き方は、プラグマティズムが論理実証主義の影響を受けた後発の思想であるかのように読めてしまいますから、中途半端に科学哲学の用語を持ち込まない方がよいでしょう。「実証主義」とだけ書いても全く問題ありませんし、寧ろその方が(こういう指摘をされないわけですから)適切です。そして最後の「功利原理」も、教養ていどの倫理学を修めた人であれば “utilitarianism principle (of utility)” という言葉は知っているはずなので、既に用語として使われている言葉を使ってオーバーロードされても困ると思うはずです。

この「功利原理」について、伊勢田さんは、

そもそも「目的」を「原理」と名付けるという言葉の意味がよくわからない。「科学は~を目的とするべきだ」という規範的な主張や「科学は本質的に~を目的とする」という概念的主張なら「原理」と呼んでもよさそうだが、もちろんこれらは目的そのものとは別である。

と評しているわけですが、すぐ後に出てくる「説明原理」という言葉からも想像されるように、「科学はこのような目的をもって営まれている」という意味合いがあるのでしょう。したがって、ここで語られている「目的」は科学ではなく科学者の思考原理といった意味合いで使われているのかもしれません。もちろん、これは目的そのものの議論とは別ですが、津田さんの書いている文脈に照らすと、既にこの段階では(たった数行ではありますが)科学の目的として自身の見解が正しいかどうかは、津田さんにとって問題になっていない、つまり議論の余地がないのだと思います。それゆえ、もうこの段落の終わりでは目的の話は終わってしまっていて、それを科学が担っているのだという「原理」の話に移っているのでしょう。ともあれ、第1章と合わせて述べると、「自然科学の目的は、人間が自然を観察することによって因果関係を推定し、その知識を使って自然をうまくコントロールすることにある」という表現になるかと思われます。

ついでに述べておくと、伊勢田さんは「つっこみその2」で、功利原理を「科学そのもの」だと書いている箇所のすぐ後で説明原理も許容するなら、功利原理を「科学そのもの」だと書くのは不適切ではないかという主旨で、以下のように述べています。

もしこの可能性も認めるなら、プラグマティズムが「科学そのもの」だという前の段落の発言はどうなるのか? 有用性を求める科学と、説明だけを目的とした科学に共通する中立的な概念としての「科学」が必要になるのでは?

しかし、もともと津田さんが「プラグマティズム」(として理解した何事か)を「科学そのものだと思える」と書いているのは、「プラグマティズムの思想は、すなわちそれこそが科学の思想である」という意味ではなく、「プラグマティズムの思想も、科学の思想に匹敵する内容をもっている」という意味だと思います。したがって、最初から「説明原理」のような目的も含まれ得るのであり、必ずしも「プラグマティズム」を「科学そのもの」だと書いているからといって、津田さんがそれらをイコールで結んでいるかのように解して反論する必要はないでしょう。プラグマティズムの思想が科学の思想の一部と一致していれば、その一部については「科学そのもの」だと言えるということではないかと思います(もちろん個人的には、特殊な日本語の使い方だと思いますが)。加えて、「功利原理」と「説明原理」は、「中立的な概念」を必要とするような相反する概念、あるいは程度の差が異なるにすぎない二つの「力点」であるかのように理解する必要はないと思います。つまり、僕が理解した限りでは「功利原理」と「説明原理」の中間とか折衷などというものを想定する必要はありません。もちろん、その両方に共通の「思想」があればそれを解明するのは一つの研究かもしれませんが、哲学的な重要性があるとは思えません。

演繹法と帰納法

演繹と帰納については、既に伊勢田さんが「つっこみその2」で取り上げていますが、津田さんが説明しているような意味合いで「演繹」と「帰納」を説明している場合も多々あると思われます。検索して見つけた限りでは、埼玉県立熊谷女子高等学校の教員が書いた倫理の学習指導案には、「具体的な事例から一般法則を導き出す帰納法と確実な原理から個々の事例を推論してゆく方法が演繹法であることを理解させる」と記してあり、2010年度のセンター試験で出題された倫理の問題について東進ハイスクールが解説した文章には、「デカルトらによると、理性を働かせて合理的な推論を行うことによってのみ確実な知識は獲得されるのであって、この方法こそが演繹法にほかならない。演繹法は、一切の経験を経ずして前提から論理必然的に結論を導くという点に特徴がある」とあります。要するに、現今の高校で教えられている倫理を復習すると、津田さんのような説明になるのは当然であって、これは津田さんに対して批評を述べる筋合いのものではなく、もしそのような「演繹」と「帰納」の説明に問題があるなら、文科省から高校教員までの中等教育関係者に対して述べるべきかもしれません。

伊勢田さんは科学哲学の教科書で冒頭に取り上げられることが多い「演繹的推論」が、津田さんの説明している「演繹法」とは違うと述べていますが、それはそのはずです。なぜなら、津田さんは「演繹的推論」に触れてなどおらず、そのような推論を用いた科学の方法というプロセスや手順の話をしているからです。inductive logic という「演繹的」推論に馴れ親しんでいる科学哲学の研究者ならばともかく、上記の高校教員を含めて一般的には「演繹法」と「帰納法」は研究のプロセスを指す言葉として使われていると理解した方がよいのではないでしょうか。

観察と仮説・理論

29 ページから始まる「観察と仮説・理論」という節ですが、ひととおり分析哲学や科学哲学を学んだ方であれば気付くように、哲学の用語は自由に使われていますが、実際には用法として疑わしいものが幾つかあります。例えば、どういうわけか伊勢田さんは「つっこみその2」で指摘していませんが、下記のような箇所を取り上げてみましょう。

我々は何らかの目的を持って事柄を検証している。心の中で何らかのアイデア(観念)を伴って事柄を検証しているのである。科学的観察は常に理論負荷的であると言われ、観察事実は理論を前提としていて、その理論の影響からは逃れられない。

[津田, 2011: 30]

なんとなく(科学)哲学っぽい用語は使われていますが、果たしてその意味合いはどうでしょうか。「心の中で何らかのアイデアを伴って事柄を検証する」という箇所において、『医学と仮説』の読者であろうとされる素人にとっては「アイデア」という言葉が曖昧に理解されているため、特に問題がないかもしれません。しかし、「アイデア」にわざわざ「(観念)」という言葉を付け加えた場合には、これは哲学の用語として使っていると言えるでしょう。しかし残念ながら、科学者が観念を伴って事柄を検証するというのは意味を為していません。「研究にあたっては何らかの着想あるいは仮説をもった上で検証している」と straightfoward に書くべきではなかったかと思います(本来はここで「仮説」という言葉を使うのが適切ではないでしょうか)。また、科学哲学の用語であるにもかかわらず定義も説明もなしに「理論負荷的」といった言葉を使うのも啓蒙書としては不適切です。

ロセーの図解

『医学と仮説』の 30~31 ページにかけて、演繹法と帰納法を紹介した後に「科学の営み」を説明している図の「元ネタ」として、津田さんは John Losee の A Historical Introduction to the Philosophy of Science の p.6 に示された図 [Losee,1993:6] を挙げています(『医学と仮説』では「科学哲学史の本のアリストテレスのところ」とだけ書かれていますが、川端裕人さんのブログに寄せたコメントで、ロセーの著書からであると答えています。ちなみに僕が所有しているのは第3版ですが、現在は 2001 年に出た第4版があり、津田さんが参照したページとは違うかもしれません)。そして、まず大切なことは、津田さんはロセーの図にヒントを得て科学の営みを説明しているということです。津田さんはここでロセーの図を説明しているわけではありませんし、もともとそんな必要はありません。そこで、津田さんご自身の見解を図示したものとしてロセーの見解とは独立に扱います。

この図について個々の項目を眺めると、次節で取り上げる「物理主義的ドグマ(後に「物理主義的概念図式」と訂正)」と「現象主義的ドグマ(後に「現象主義的概念図式」と訂正)」が目に留まります。これはロセーの図にはない項目です。

Losee's diagram

しかしその前に、『医学と仮説』では図を取り上げた次にいきなり「図4の左側の個別事象の観察の方を市川氏は実在世界と称し、図の右側の一般法則や理論の言語世界と区別している」と書かれているのは、あまりに唐突だと言えます。伊勢田さんは「つっこみその2」で、

なぜここで突然「市川氏」の科学哲学の話になるのか。市川氏はそもそも何者なのか(文献表を見ればもちろん分かるわけだが、本文中での登場の仕方は唐突である)。科学の方法論について語る科学哲学者はたくさんいるし、一般入門書も何種類もあるわけだが、なぜそれらはすべて無視で科学哲学を専門にしない市川氏の議論だけが紹介されるのか。

と書いていて、もちろん科学哲学を専攻している人に限らず、世の殆どの人は「市川氏」といきなり言われても、市川雷蔵のことか、市川歌右衛門のことか、あるいは市川団十郎のことなのか、要するに誰のことか分からないでしょう。『医学と仮説』は、学内や出版社といった内輪だけで読み回しているものではなく、公的な出版物です。本書は疫学や哲学について予備知識がない人でも手にとる可能性がある啓蒙書なのであって、これは著者よりも編集者のミスと言うべきかもしれません。専門雑誌に掲載する学術論文なら許容されても、啓蒙書で自分が知っているというだけの人物について語るような文体は、不適切という他はないからです。僕がここで「古上君はなかなか成長したな」と書いても、殆どの人は誰のことか分からないでしょう。伊勢田さんが上記のように問うたのは、「市川氏」が何の説明もなく引き合いに出されてもよいほど高名な学者なのかどうかという、哲学的にどうでもよい理由からではなく、この文脈で「市川氏」の見解を特別扱いして紹介しなくてはいけないという学術的な根拠が分からないからなのです。単なる知り合いだとか、たまたま読んだ本の著者だったという事情だけでなく、学術的な根拠があるとしても、『医学と仮説』の文章だけでは読者の誰も理解できないでしょう。

クワインの二つの概念図式

津田さんが科学の営みを説明している図には、「現象主義的ドグマ」と「物理主義的ドグマ(神話)」という言葉が記載され、これについて『医学と仮説』では「クワインによる」表現だと説明されていますが、これは川端裕人さんのブログで言及されているように、津田さんの勘違いだったようです。このため、津田さんが所属する学科のサイトでは正誤表が公開されており、その正誤表には「現象主義的ドグマ」を「現象主義的概念図式」、「物理主義的ドグマ」を「物理主義的概念図式」とする旨の訂正があります(2013年8月5日:なぜか正誤表のリンク先が「医学における因果推論の歴史のまとめ」という PDF の年表に差し替わっているため、現在は修正された図式を確認できなくなりました)。先に示した図も、津田さんの訂正に従っています。(2015年4月20日の時点では、上記の正誤表が公開されているページに、PDF ではなくそのまま正誤表がテキストとして掲載されています。)

しかし伊勢田さんが「つっこみその2」で指摘するように、言葉を訂正したとしても、「現象主義的概念図式」や「物理主義的概念図式」というものが何であり、どうしてそれらが図のなかでそれぞれの位置にあるのかという説明が『医学と仮説』には前後のページに一言も書かれていません。このため、多くの読者は単に読み流してしまう可能性があります。そして更に悪いことに、「科学に関するこの整理は、詳細な検討の際に重要になる」と書かれており [津田,2011:32]、「この整理」は直前の「物理主義的概念図式」と「現象主義的概念図式」も含んだ図4を指すはずなので(『医学と仮説』では「ドグマ」とされていますが、本稿では全て訂正して「概念図式」と表します)、後になれば説明されると期待してしまいますが、実際には「実在世界」と「言語世界」の対比だけが後に言及され、しかもかなり後の 100 ページになるまで直接は言及されません。津田さんが川端裕人さんのブログで書いているコメントによると、『医学と仮説』は原稿からかなり圧縮して出来上がったとのことですが、もし圧縮していなかったら読者はいったい何ページになるまで読み続けなければならなかったのでしょうか。しかも、ロセーの図にクワインの論文から引っ張ってきた二つの語句(対比)を埋め込んだ根拠が、結局は後になっても説明されないまま放置されています。ということで、二つの「概念図式」を論点として取り上げても本書の中に理解を助ける記述は何もないため、どうして図4に入れてあるのかは不明ですが、これら二つの概念図式については、ここで簡単に解説・論評してみましょう。

川端さんのブログでは、2013年1月7日のコメントで津田さんが次のように説明されています。

ちなみに私が、市川先生を引用したのは、同じ岩波科学ライブラリー書いておられたので、図4の左側の世界と右側の世界の区別にぴったりだったというただそれだけの理由です。

残念ながら、我々が知りたいのは、どうして「ぴったりだった」と思ったのかという理由であって、個人的な語りや経緯の説明ではありません。

二つの対比は、津田さんは “Two Dogmas of Empiricism” という論文に出てくる語句だと勘違いされていたので「ドグマ」と誤って書いてしまったわけですが、本来は「概念図式 (conceptual schemes)」であり、この言葉が出てくるのも “On What There Is” という論文の方です。どちらの論文も後で From a Logical Point of View: Nine Logico-Philosophical Essays (2nd edn. revised, Harvard University Press, 1980; 1st edn. 1953) という論文集に収められており、この論文集は Word and Object と並んでクワインの代表的な著作として認められています(古くは岩波書店、後に勁草書房から翻訳が出ています)。クワインが “On What There Is” で対比した「物理主義的概念図式」と「現象主義的概念図式」は、「何があるのか」という問いをめぐって我々が選択しうる二つの概念図式です(ちなみにクワインは概念図式が「二つだけしかない」とは言っていません)。概念図式とは、我々が自分たちで観察したり知りうる経験の断片を文として当てはめる、いわば知識の配置図といったものであり、「何があるのか」という問いに答えるべき存在論を構築する際に我々が採用する、“reasonable” であるかどうか、“simple” であるかどうかといった「主導的原理 (guiding principle)」によって、我々は概念図式を構成します [冨田,1994:45]。物理主義的概念図式を採用した場合、我々はビリヤードボールの白球がテーブルの上を動く様を眺めて、「白球がこのポケットに落ちた」と言ったりします。概念図式を採用するということは、一つの言語を採用することでもあるからです。他方、現象主義的概念図式を採用すると、同じ場面に居合わせながら、我々はもっと複雑な表現で同じことを記述する言語を採用するでしょう。端的に言えば、「時刻 t1 において河本孝之はこれこれしかじかの知覚を得た、時刻 t2 において河本孝之はかくかくしかじかの知覚を得た、時刻・・・」となります。現象主義的概念図式を採用する人から見ると、物理主義的概念図式を採用して、“the most economical set of concepts adequate to the play-by-play reporting of immediate experience” と言うべき縮約した表現に落とし込むことは(この場合、「白球」という物理的対象への縮約もあります)、“reasonable” であったり “simple” であるという理由で選ばれた、一つの「神話」を採用することに等しいと見做せるでしょう。クワインの師とも言えるカルナップは、或る概念図式を採用した後に「あるのは何か」と問う場合、その採用基準(内部問題)はプラグマティックに決めてもよいと主張しましたが、彼は「何があるのか」と問う場合には採用基準(外部問題)はプラグマティックに決められないと考えていました(が、これもよく知られているように、カルナップは自著の所々では殆どクワインと同じように外部問題も決断の問題だと書いているわけですが)。しかし、クワインはカルナップに反対して、「何があるのか」という問いの答えもプラグマティックに決めてよく、そしてそれもまた言語の選択の問題であると考えました。物理主義的概念図式と現象主義的概念図式は、我々が許容できる主導的原理を満たす限りはどちらを選択してもよいのであって、クワインの主張するところでは、寧ろ「どちらも発展させるに値するもの (Each, I suggest, deserves to be developed)」なのです [Quine,1980:17]。

したがって、物理主義的概念図式こそが神話であるわけはなく、「右側の言語世界の物理主義的ドグマを、クワインが『神話』と表現したのは」有名でも何でもなく [津田,2011:32]、クワインはそのようなことは主張していないというのが僕の所見です。川端裕人さんのブログで書かれた津田さんのコメントには「クワインの論文は、15-6年前にいくつかコピーやら本やらで読んで、理解できた部分と理解できない部分とが混在するまま放置していました」とあるため、うろ覚えで書かれていることは明らかですが、これでは “On What There Is” の一部に関するまとめとしては「理解できた」も「理解できない」もなく、端的に言って間違っています。クワインは、実在の何かに対比されるべき言葉の上だけの何かという軽蔑的な意味合いで「神話」という言葉を使ったわけではなく、我々が採用している概念図式とは別の概念図式を採用している存在論を「神話」と呼んでいるにすぎません。“On What There Is” の最後の一節だけでも改めて紐解いていただければ、結論は自ずと明らかでしょう。

言語世界と実在世界

では、ここで津田さんが参照されたという市川惇信さんの『科学が進化する5つの条件』を参照してみましょう。「知らない」と言っているだけでは水掛け論です。そこで、「言語世界と実在世界」と題した 58 ページ以降の議論をもとにすると、例えば「2080年の日銀総裁が公定歩合を 30% も引き上げたことにより、日本は未曽有のデフレに陥った」という言明は、少なくとも2013年の日本においては2080年の日銀総裁が実在しないので、言語世界にあると見做されます。他方、そのように言明することは2013年においても(こうして言明しているように)現実の出来事であって、これはそう言明する人がいて発話したり HTML ファイルに(いまこうして)タイプするという実在世界の事柄です。また、市川さんによる言語世界と実在世界の対比によれば、言語世界の言明は矛盾を含み得ますが、実在世界の存在は矛盾を含み得ないともされており(私見では「事物が矛盾する」というのは単なるカテゴリーミステイクであって、事物について矛盾するかしないかを問う設問自体が間違っていると思いますが)、例えば「実数 a の次に大きい実数」とか「ゼロで割って 356 になる実数」とか「赤い白色(「赤っぽい白色」ではない)」とか「0.4 匹のトンボ」のような、偽であったり矛盾していたり無意味であっても言明はできるという言語世界の事例を挙げられるでしょう。これに対して、矛盾した対象というものは物理的に存在できないので、実在世界に赤い白色(括弧で括っていないことに注意)はありませんし、公園で 0.4 匹のトンボが飛んでいたりもしないわけです。このように、市川さんの所論によれば、言語世界の中で勝手に作られただけだと矛盾したり無意味になりうる言明が出来上がってしまうかもしれませんが、実在世界の対象を言語世界へと「写像」した言明であれば矛盾したり無意味であることはなく、そうした「実在世界の像」を描くことが科学であると主張されます [市川,2008:61]。

ここで、先に紹介した図4(津田さんがロセーの図とクワインおよび市川さんの対比を組み合わせた図)について、科学哲学の議論としては次のような着眼点があります。

  1. ロセーの図は正しいか。
  2. クワインの対比は正しいか。
  3. 市川さんの対比は正しいか。
  4. 津田さんはロセーの図を(是非はともかく)正確に使っているか。
  5. 津田さんはクワインの対比を(是非はともかく)正確に使っているか。
  6. 津田さんは市川さんの対比を(是非はともかく)正確に使っているか。
  7. 図4の中で、それぞれの要素は整合しているのか。

ただし、津田さんは「科学哲学の議論として正しいかどうか」を『医学と仮説』で議論しているわけではありませんから、1., 2., 3. は本稿では除外しておいてもよいでしょう(正直言って、市川さんの『科学が進化する5つの条件』という著書も、思想史や哲学あるいは科学についての見解として怪しい記述が見られるため、事象そのものの理解をどんどん離れて科学者の個別意見を吟味し深入りしすぎるのは、とりわけ科学哲学や自然科学を志す方々には時間の浪費だと思うので、おすすめできません)。もし、津田さんが科学哲学として間違った見解を『医学と仮説』で援用されたのであれば、その責任は津田さんにではなく科学哲学者や市川さんにあります(歴史的に何らかの意義があるとして言及する必要でもない限り、科学哲学として誤りであることが明白な見解を教科書や啓蒙書に掲載し続けるとすれば、それは恥ずべきことでしょう)。そして残りの着眼点についても、4. については「津田さんご自身の見解を図示したものとしてロセーの見解とは独立に扱います」と述べましたし、『医学と仮説』では図4について詳細に説明はされていないので、議論しません。5. については、既に論じたように、津田さんはクワインの「神話」とか「概念図式」という語句の意味を取り違えていると思われるので、これ以上は議論しません。

次に、6. を念頭に『科学が進化する5つの条件』を読むと、先の図4で示された「観察」と「理論」の対比に市川さんの「実在世界」と「言語世界」の対比を当てはめるのは、無理があると言わざるをえません。市川さんの対比を使うと、観察による現象(実在世界)の記述は言語世界のものであり、実在世界にあるのは現象を観察する行為や記述(言語世界)を生み出す行為であって、理論というもの理論化というプロセスは異なるステージの話だと考えるのが妥当でしょう。

なお、市川さんは「理論」という言葉よりも「モデル」という言葉を好んで使われていますが [市川,2008:11]、本稿では市川さんの「形式知」を含めて、実在世界の現象や事物を言語世界へ「写像」したものを「理論」と呼んでおきます。上記のとおり、言語世界のものは矛盾していたり誤っていることもありますが、それらの中でも実在世界を写像したものは(市川さんの定義によれば)客観的な知識として信頼に足るとされています。そうした信頼できる知識を「モデル」と呼ぶのは、少なくとも私には違和感があるからです(私にとって「モデル」というのは、「今年は Honda がニューモデルのバイクを出展してきた」といった文脈で使われる「範型」という意味か、もしくはしかるべき公理系を充足する数学的構造のことです。ニュートン力学や気体の状態方程式を「モデル」と呼ぶのは、なるほど何らかの公理系を置いてニュートン力学の法則や事物の集合から構成される構造を「一つのモデル」と呼ぶのは可能ですが、このようなモデル理論をもとにした用法は特殊だと思いますし、市川さんはモデル理論を想定しているわけではないと思います。それに、モデル理論では公理系を構成する幾つかの文を「理論」と呼んでいるため、さらにややこしくなるでしょう)。そもそも、[市川,2008:11] でもポパーの「理論」を「モデル」と呼ぶと述べたあとで、「仮説、理論と言ってもよい」という奇怪な説明を与えているので(ならどうして言い換えるのか)、「理論」としておいてもよいでしょう。

但し科学哲学において使われる「理論」という言い方には、別の科学者からは、哲学に関して使うべきではないという違和感が表明されているというのも事実です(例えば、伊勢田哲治・須藤靖『科学を語るとはどういうことか』、河出書房新社、2013)。そして、科学者の中には哲学者が使う「理論」という言葉に違和感を抱く人々がいるという点は、その是非についてはともかくとして、きちんと押さえておく必要があるでしょう。哲学において「理論」と言う場合は、おおよそ「説」や「所見」といった意味合いであり、「理論をもつ」という言い方があるように、言表されている必要はありません。他方、そうした意味合いに違和感を抱く人々においては、「理論」というものは経験的な証拠に支えられ得るものであって、思弁の産物ではないという意味合いなのでしょう。このように、他の学問を罵倒する目的であろうと自分の専門分野を自負する目的であろうと、人間というものは(科学者も例外ではなく)言葉をあるていどは自分たち自身を取り巻く文脈に沿って使うものです。したがって、「理論」というありふれた言葉であっても、不要な誤解なり違和感を避けるためには、なるべく正確に定義しておく方がよい場合もあるわけです。そうしなければ、或る言葉として表記することと、自分が理解している意味合いなりクオリアとが、何らかの神秘的な必然性によって結合しているという「指示の魔術説」に陥っている方も多々おられるので、そういう人々にしてみれば「私のクオリアを固定する乗り物は『理論』という表記でなければいけない」ということになり、他人が違う意味合いで表記すること(つまり本人にとっては異なるクオリアと結びつくような仕方で言葉を使うこと)に異常な執着を引き起こして、ていどの低い神学論争に至ることがあります。

科学における研究プロセス全体の理解についても、図4で示されたような姿は、少なくとも僕が市川さんの著作から理解した内容と整合していません。なぜなら、津田さんが図4で示そうとしているのは、自然を観察することによって因果関係を推定するという帰納であり、これが疫学における観察研究のパラダイムとして提示されていると思われますが、市川さんの著書には「モデルを作る方法は本質的に試行錯誤である」とされ [市川,2008:68]、どのような方法や経緯で(言語世界における)モデルを作ったかは科学において問題ではなく、モデルが(実在世界における)事物を妥当に写像しているかどうかの検証こそが科学の客観性を保証するという趣旨の主張があるからです。従って、上記のうち 7. についても結論は言うまでもないと思われます。

「統計学は科学の文法である」

ばらばらと起こる現象をまとめ上げ、理論や一般法則として言語化するのは統計学の役割なので、統計学は科学の文法と呼ばれる。これにより我々は一般化され言語化された理論を構築し、それを個別の事象に適用させることが出来る。

[津田,2011:34]

ピアソン (Karl Pearson) の言葉として “Statistics is the grammar of science” という「引用」が数多くの Quotes(コピペ)サイトに載っているわけですが、どのサイトも一つとして典拠となる著作や遺稿などを示しておらず、僕が調べた限りでは伊勢田さんが指摘するように、ピアソンが The Grammar of Science という本を書いた事実と、近代統計学の基礎を作った一人であるという認識から生まれた「エア引用」だと思います。また傍証として、これだけ広く口にされている(と津田さんも書いています)にもかかわらず、Wikiquote にすらエントリーされていないので、恐らく典拠が見つからないのでしょう。

テキサス大学の数学者で数学教育(しかも統計学の教育)を専門にしているローレンス・レッサー (Lawrence M. Lesser) の表現を引くと、“Karl Pearson called statistics ‘the grammar of science’ (in the title of his 1892 book)” というわけですが、これは何もピアソンがそう発言していたという意味ではなく、あくまでも「書名でそう呼んだ」という意味でしかありません(レッサーのサイトには、残念ながら “statistics is the grammar of science” という「引用」が紹介されています)。ここでピアソンの伝記に当たってみると、ピアソンは自分の恩師であるゴルトンがなくなってから2週間ほどして、ゴルトンの最大の貢献は統計学に対する仕事であったと評価して、その理由を “‘the spirit of mathematics must inform all science’” と述べています([Porter,2004:286] 引用の引用なので記号が重複しています)。ということで、「引用」についてはともかく、数理的なものの捉え方や考え方が科学にとって大切だという見解を抱いていた人だったのは確かなのでしょう。

それから The Grammar of Science は、「科学概論」という書名で大昔に翻訳が出ていますし、ふつうは「科学の文法」と呼ばれていますが、どうして「文法」なのかを理解していないと、科学における統計学や数学についてピアソンが何を考えていたのかというポイントを見失うことになるでしょう。私見では(そして『医学と仮説』の文脈に則して言えば)、「文法」という言葉には、研究成果を表現したり、自然法則という真理を読み取るために必要な、「読み書きそろばん」あるいは「教養」といったニュアンスがあるのだと思います [Porter,2004:220f.]。ピアソンの評伝を書いたポーターによれば、ピアソンは、オクスフォード大学でリンカーン・コレジの学長 (Rector) も務めたマーク・パティソンの教育理念に同調していたと言います。パティソンは、単なる事実の知識を積み上げるだけではなく、さまざまな科学の知識を一つの全体として知性的に把握(intellectual grasp)することを教育に求めていました。そして、ポーターは以下のように述べています。

Pearson's Grammar of Science was also at bottom a tract in support of educational reform and was continuous with Pattison's vision. The choice between wide-ranging inquiry tightly focused research was for him a pressingly personal one. Statistics would soon cut through the knot, since this was a methodological specialization that bore on a whole world of scientific problems. But few fields could claim this kind of generality, and even statistics was more consequence than cause of the Grammar's celebration of scientific method. Method was the antithesis of narrowness, a third way between self-indulgent dilettantism and the idiocy of disciplinary confinement. Pearson pronounced it fundamentally the same in every domain of knowledge.

[Porter,2004:221]

したがって “the grammar of science” は、意訳すると「科学のいろは」とでも表現すべきものなのであって、“grammar”(文法)を科学の「構造」とか「骨組み」として理解するのは不適切ではないかと思われます(なおザルツブルグの『統計学を拓いた異才たち』(日本経済新聞社、2006)を訳した竹内恵行さんと熊谷悦生さんは「科学概論」と訳しており、こちらの方がピアソンの意図を正しく言い当てています。直訳にすると却って誤解の元になるという一例かもしれません)。また、伊勢田さんが「つっこみその2」の末尾で正しく撤回されているように、統計学の理論が理論物理学や実験物理学で実際に使われているかどうか、あるいは理論の定式化に当たって本質的な役割を果たしているかどうかという論点を持ち込むのは、恐らくこれも不適切だと言えるでしょう。なぜか津田さんや他のコメントを書いた方もこの論点にこだわり、川端さんのブログでは延々と長大な議論になっていますが、これは僕からするとピアソンの考えからはズレたところで議論しているようにしか見えません。個々の分野において統計学の手法が「マイナーな位置づけなのかどうか」などという話は、ピアソンにとってはどうでもよいことではないでしょうか。

ともあれ、『医学と仮説』では上記の引用部分の前後でピアソンに言及しているわけではなく、「統計学は科学の文法」というフレーズは科学者どうしの会話に出てくるスローガンのようなものとして扱われているので、上記の論点を詰めてもさほど有益ではないと思います(ただし The Grammar of Science とピアソンの名前は後で出てきます。しかしそこにおいても、議論の主旨とは殆ど関係なく言及されているので、さほど重要ではありません。49 ページでは、「とりわけ文法としての統計学と計算機の発達で」といった表現が見られ、これは上記の私見では津田さんが正しい意味合いで「文法」という言葉を使っているように思えます。したがって、この正しいと思える意味合いを津田さんが一貫して保持していれば、「この分野では統計学はあまり使っていない」とか「科学理論の基礎として統計を使わない場合もある」といった指摘が、ピアソン(と、ピアソンの意味合いで「文法」という言葉を使っているはずの津田さん)にとっては枝葉末節でしかないと判断し得たはずです。

因果関係の探求の歴史

まず 35 ページから 38 ページにかけて「医学における因果関係の探求の歴史」と題された一節で分かることは、この箇所が「因果関係」という概念についての研究史を述べたものではなく、具体的な事例を通して「原因を特定する」という探求の優れたケーススタディになっているということです。この節の最後では因果関係をテーマに研究しているパールの著作に触れていますが、そこで述べられているのは因果関係の概念に関する研究成果ではなく、ランダム化臨床試験にかかわる課題です。べルナールやコッホといった人々が因果関係という概念をどのように考えていたかという説明は、寧ろ次の節から始まります。

次に取り上げられているのはべルナールです。彼の書いた『実験医学序説』から引用しつつ、津田さんはべルナールの考えていた「因果関係」が決定論的であったと評しつつ、その思想を「要素還元主義」や「メカニズム」(ミクロまでの解明)として特徴づけており、日本でこのような思想を支持する人々は曝露と疾病の因果関係に時系列上の A ⇨ B ⇨ C ⇨ D ⇨ ... ⇨ Z といった細かい事象のつながりを想定するが、個別の因果関係つまり B ⇨ C や M ⇨ N といった個々の因果関係がどうして成り立つのかを説明せず、津田さんが後述する「ヒュームの問題」をクリアしないと論じられています。ここで描かれているべルナール(や日本の一部の医学者)の決定論的な因果関係という概念について、津田さんは「ただ近代統計学は、この時まだ現れていない。ロンドンでピアソンの『科学の文法』が発表されたのは、コッホの原則がベルリンで発表された一八九二年である」として節を閉じています。この説明について、決定論と還元主義それに「メカニズム」という概念が一つの思想として相互にかかわっていると指摘していること、またそのような思想のもとで理解された「実験研究の成果」が、決定的な根拠として強調される第1章の話題にかかわっていること、以上の二点が見て取れるでしょう。そして、その次の節ではコッホの見解が取り上げられており、ここでも人間の病気を発見するためにコッホが発案したという原則を紹介しつつ、19世紀後半の文献から決定論や要素還元主義がどのような考え方に端を発していたかをたどっており、興味深く読めます。

決定論を表す文末?

次にコッホの原則を紹介している箇所で、津田さんはコッホの原則に見られる「病原体は他の疾病の症例で発見されてはならない」という表現の文末が「ならない」となっていることを指摘して、その文末の表現は決定論を表していると説明しています。これは意味不明です。伊勢田さんも「つっこみその3」で指摘しているように、「~しなければならない」という表現だけを根拠にして、それが決定論を表していると結論することはできません。「哲学者には、俗書を読む暇などあってはならない」、「正露丸糖衣は白くなくてはならない」、「アニメの主人公は野球好きでなければならない」、「問い合わせフォームは SQL インジェクションに対して堅牢でなければならない」等々、これらの文はどういう決定論を表現しているのでしょうか。

要素還元主義

39 ページで「要素還元主義」という言葉が定義も説明もなしに使われていることについて、伊勢田さんは「つっこみその3」において「要素還元主義という言葉はここがほとんど初出に近い。いくらなんでも唐突すぎる。機械論と要素還元主義は密接に結びつくということはよく指摘されるものの、両方とも複数の意味のある言葉なので、関係をちゃんと解説しようと思うとかなり複雑な作業が必要になる」と指摘しています。その「要素還元主義」は、43 ページで説明が始まります。クリックやファン・レーゲンモルテルの記述はともかくとして、その後に次のような説明が続きます。

要素還元主義は、元々は、ウィトゲンシュタインの影響を受けた論理実証主義(ウィーン学団)が、いかなる言明も基本的言明の要素へと還元できるとした、言語上の話であった。これが科学の世界に入ってきた。

[津田,2011:44]

生物学・医学・疫学の話と科学哲学の話を結びつけて論じたいという主旨は理解できます。しかし、科学哲学の話だけに留まらず哲学史の話としても荒っぽく、敢えて言えば間違っています。“reductionism” の概念を実際に論じたというだけでなく、そのような「着想 (conception)」をもっていたという意味では還元主義はもっと古いと言えるのであって、例えばイオニア学派を始めとする Presocratic philosophers も、広く定義すれば還元主義です。また「要素還元主義」という言葉は哲学では使われません(哲学では、還元することによって「存在論的に還元するのか」どうか、あるいは別の還元なのかといった論点が重要になります。つまり、なぜ還元しうるのか、還元とは何なのかという問いに答えるべきなのであって、還元可能性や還元の妥当性を議論する場合に、当の話題を「要素」還元主義などと呼ぶのは、哲学の研究者であればナイーブすぎます。伊勢田さんは「つっこみその3」では指摘していませんが、伊勢田さん自身も哲学用語であるかのように使うのはやめた方がよいでしょう)。そして、津田さんの文章に散見される特徴ですが、「ウィトゲンシュタインの影響を受けた論理実証主義(ウィーン学団)」という影響関係に関する説明と、「論理実証主義(ウィーン学団)が [...] 言語上の話であった」という主張の説明を一つの文で表現しているために、ウィトゲンシュタインが還元主義を主張していたと誤解されかねません。ページ数が少ないので圧縮したという事情はあるのでしょうが、これは文章の短縮としては間違っています。誤解を生じるような短縮をするくらいならば、ウィトゲンシュタインの話は還元主義と関係がないのですから、寧ろ削除する方がマシです。更に悪いことに、上記のような表現では、論理実証主義が言語の話としてだけ還元主義を主張したかのように読めてしまいます。

それから、津田さんが参照している Jeremy Howick の The Philosophy of Evidence-based Medicine (Wiley-Blackwell, 2011) を調べてみても、哲学用語としての “reduction”, “reductionism” という言葉は一つも使われていません(疫学用語としての “absolute/relative risk reduction” は使われています)。このように、哲学の議論として考えても、還元主義というのは疫学(の哲学)において特筆すべき論点ではないということが分かるでしょう。

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第3章

おおまかに言うと、第3章には当サイトで取り上げるべき哲学的な論点はないと思います。もちろん、やろうと思えば議論できないわけではありませんが、『医学と仮説』をベースにできることは、せいぜい「科学とは何か」といった big question について印象批評を綴ったり、牛刀でなんとやらという雑な議論を展開するか、あるいは個別の(瑣末とまでは言いませんが)事例でしか語れないような議論を展開するかのどちらかになるでしょう。それらは議論する価値がないわけではありませんが、僕の理解している科学哲学の望ましいスタイルではありません。

ここまで見てきた限り、「医学においては、因果関係を推定するにあたり、実験研究というアプローチは必要不可欠なのか」という問いについて明快な議論を元にした答えはありません。個別の事例にもとづいて金がかかるだの時間がかかるといった弊害を唱えることは、医学の議論でもなければ哲学の議論でもないのであって(同じく、津田さんが支持しているらしい EBM の議論としても瑣末であって、「プラグマティズム」とかいう哲学の話とも関係がありません)、公衆衛生政策にかかわる行政や法律といった社会システムの議論です。そこに要素還元主義やメカニズムの追究といったスローガンで語られる思想を読み取るのはよいとしても、読み取った思想に対して観察研究なりアウトブレイクというコンセプトを対置して強調したいのであれば、寧ろ科学哲学ではなく STS を援用される方が適切ではないかと思います。

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第4章

因果関係と論理的な関係

自然科学の因果関係について、ガリレオを起源とする必要十分な原因(原因と病気が一対一対応)と考える人もいるだろう。これは、ラッセルが言うように、論理学における根拠と帰結の関係と因果関係を同一視する誤りだ。

[津田,2011:80]

伊勢田さんの「つっこみその5」で言及されているとおり、ラッセルの『西洋哲学史 (History of Western Philosophy And Its Connection with Political and Social Circumstances from the Earliest Times to the Present Day)』(1945) という著作の 690 ページではヒュームの解説をしていて、以下のように書かれています。

(Spatio-temporal relations, Hume holds, can be perceived, and can form parts of impressions.) Causation alone enables us to infer some thing or occurrence from some other thing or occurrence: “ Tis only causation, which produces such a connexion, as to give us assurance from the existence or action of one object, that 'twas followed or preceded by any other existence or action.” A difficulty arises from Hume's contention that there is no such thing as an impression of a causal relation. We can perceive, by mere observation of A and B, that A is above B, or to the right of B, but not that A causes B. In the past, the relation of causation had been more or less assimilated to that of ground and consequent in logic, but this, Hume rightly perceived, was a mistake.

[Russell,1945:690]

津田さんの記述に該当する箇所は、ラッセルの著作では「過去において、因果の関係はおおよそ論理学における根拠と帰結の関係になぞらえられていた。しかしこれは、ヒュームが正しく理解したように、誤りであった」となっていて、伊勢田さんが述べているように “more or less assimilate” を「同一視」と訳すのは強すぎるでしょう。それから、伊勢田さんが指摘しているように、ラッセルは上記の箇所で必要十分条件については何も書いていません。恐らく、ここで津田さんは条件法の前件・後件と、推論や論証の前提・帰結を取り違えているのではないでしょうか。

それよりも寧ろ、ここまで読んできた人の中で気になる方もいると思いますが、津田さんは因果関係を(この第4章に至るまで殆ど根拠なく)「言語世界」の話であると述べていますが、ここで因果関係は論理学における根拠と帰結の関係ではないというラッセルの見解を当然であるかのように支持しているので、これは何か注釈を置かなければ混乱の元になるかもしれません。なぜなら根拠と帰結の関係は、まさしく言語の一つであるはずの論理学によって表現されたり考察されることがらだからです。自然においては根拠や帰結などなく、個々の自然現象は「そうなることが妥当である」から生じたり起きたりするのではありません。根拠や帰結は、人間が形式化された言語において扱ったり、形式化されていない場合でも何らかの言語によってそれらを表現し、論証するものです。従って、因果関係が言語世界の「なにごとか」であるとしても、それは根拠と帰結をむすびつけるような論理的な関係ではないというのが津田さんの理解を示すものであると(少なくともこの時点では)言えるでしょう。論理的な関係として因果関係を分析するというアプローチを津田さんが全て否定しているのかどうかは、ここでは分かりません。もちろん科学哲学を学んでいる人は、この他にも「論理的な関係」を導入するアプローチとして、因果関係を必要条件や十分条件という概念で定義しようとするアプローチ (たとえば John Leslie Mackie)や、因果関係を表現するための特殊な含意を使ったアプローチ(たとえば Arthur W. Burks)を知っているはずですが、それについては後述の箇所でとりあげます。

第4章の冒頭で保留した点

次に、伊勢田さんが自身のブログで取り上げてから川端裕人さんのブログでも話題になった「ヒュームの問題」を扱います。この論点が、第1章で触れてからそのままになっていた因果関係の概念にかかわるからです。もちろん、上記のラッセルを引用している箇所から「ヒュームの問題」を説明する箇所に至る途中の文言にも、いささか不用意で疑問の余地がある表現は指摘できます。例えば以下の箇所です(それぞれ強調しているのは河本)。

特に「原因と結果は実在世界だが、因果関係は言語世界である」という表現は津田さんの見解にとって重要と思われますし、後にも触れると思いますが、ここでは保留しておきます。但し、この表現そのものは日本語として正確ではありませんし、先に津田さんが 31 ページで示した図に書き込まれた「実在世界」と「言語世界」も、詳しい説明はないので、この手の啓蒙書を手にとる人たちにしてみれば、適当に読み流しておく他はない筈です。原因や結果が実在世界における何なのか、因果関係が言語世界における何なのかは、ここでは理解不能です。それから最後に挙げた箇所を素直に読むと、津田さんは要素還元主義に基づく因果関係の探求は「科学の問題ではない」と主張していることになり、非常に強い主張だと解せます。

「ヒュームの問題」は専門用語なのか

まず、津田さんの書いている内容を取り上げる前に、この「ヒュームの問題」という表現の使われ方について検討しておきます。『医学と仮説』には、「『ヒュームの問題』」と括弧に入れて表現している事例があります。つまり、津田さんにとっても「ヒュームの問題」という表現は “Hume's problem” という「用語」ないしはジャーゴンとして理解されています。したがって津田さんは、我々がふだんの会話で「昨今の中国問題について、どう考えますか」とか「いじめを解決するには教育の問題を考えているだけでは不十分だ」と言っているような、「何ごとかについて懸案とされ、考えたり解決されるべきこと」という大雑把な意味合いで「問題」という言葉を用いているわけではなく、「ヒュームが気にして考えたこと」というていどの意味で「ヒュームの問題」と書いているわけではありません。そういう前提があるからこそ、津田さんが説明している「ヒュームの問題」というのは、哲学の用語として使われている意味合いと同じであるかどうかが問われるのです。「ヒュームはこんなことを気にして本を書いたんだってね。これをどう思いますか?」というていどの意味合いであれば、恐らく伊勢田さんをはじめとして誰も指摘したり問題にはしなかったでしょう(もちろん、過去の哲学的見解に対する合理的再構成として適切であるかどうかは、検討すべき課題として別に問われると思いますが)。更に、津田さんは 86 ページの注釈で「ヒュームの問題の説明は、『今日まで太陽が昇り続けて朝が来たことを理由に、明日の朝が来ることは導き出せない』という方が有名のようで」と書いているので、津田さんが「ヒュームの問題」というフレーズを、哲学において一定の意味をもっている話題のことだと正しく理解していたことが分かります。

では、実際にどういう意味で使われているのかを確認しておきましょう。

Although his writings span many subjects Reichenbach is best known for his work in two main areas: induction and probability, and the philosophy of space and time. In the former he developed a theory of probability and induction that contained his answer to Hume’s problem of the justification of induction. Because of his view that all our knowledge of the world is probabilistic, this work had fundamental epistemological significance. In philosophy of physics he offered epoch-making contributions to the foundations of the theory of relativity, undermining space and time as Kantian synthetic a priori categories.

[Edward Craig ed., The Shorter Routledge Encyclopedia of Philosophy, Routledge, 2005, 893]

Popper brings to the central problems of Kant’s philosophy an uncompromising realism and objectivism, the tools of modern logic, and a Darwinian perspective on knowledge, thereby solving Hume’s problem of induction without lapsing into irrationalism (Objective Knowledge, 1972).

[Robert Audi ed., Cambridge Dictionary of Philosophy, 2nd. edn., Cambridge University Press, 1999; 1st., 1995 ,722]

Although Hume posed his problem in terms of homely examples, the issues he raises go to the heart of even the most sophisticated empirical sciences, for all of them involve inference from observed phenomena to unobserved facts. Although complex theories are often employed, Hume’s problem still applies. Its force is by no means confined to induction by simple enumeration.

[Robert Audi ed., Cambridge Dictionary of Philosophy, 2nd. edn., Cambridge University Press, 1999; 1st., 1995, 746]

上記のように、「ヒュームの問題」という言葉を科学哲学の文脈で正確に表現すれば、“Hume's problem of (the justification of) induction” となるでしょう。したがって、科学哲学においてはしかるべき一定の意味合いをもつ専門用語なのであり、津田さんの説明されている意味合いでの「ヒュームの問題」、つまり、

というのは、津田さん自身が「有名」ではないと断っているように、少なくとも「ヒュームの問題」として語られている意味合いとしては「有名」ではありません。上記は津田さんが述べた「ヒュームの問題」の説明を僕なりにパラフレーズしたものです。もしこれが津田さんの「ヒュームの問題」の正しい定式化であるならば、津田さんの主張、あるいは日常的な判断の正当化(ふだんは因果関係を何らかの条件で推論し、実際に判断の理由としている)によって、多くの医学研究者の「思いこみ」とされている推定を、「それは言語世界の因果関係を、物理世界の実体として探求しようとしているからだ」と批評できるというわけです。津田さんの主張からすれば、もし前者が「必然的な関係としての因果関係を示すような、絶対的な証拠」があるという仮定によって実験研究を優先していると想定できるならば、そのような想定に立って幾ら「メカニズム」を要素還元主義において究極の単位と言いうるプロセスにまで分解して理解しようとしても、それはできないことです。そして日本の医学において、究極のメカニズムにまで分解してプロセスを理解できない限りは因果関係を establish できないと言い続けて、具体的な政策の実施を保留したり、医療としての明快な判断をしないというのでは、医学は社会に貢献できなくなる・・・と理解できます。

しかし、ここまでは科学哲学の文脈に限った話であって、「ヒュームの問題(Hume's problem)」という表現が帰納法の正当化という意味だけに使われているのかと言えば、そうではありません。もっと広い文脈において確認すると、“What was Hume's Problem with Personal Identity?” (2000), “The Relation Is/Ought: Hume's Problem” (2008) という別の文脈で使われる事例もあります。更にヒュームの解釈という古典研究の文脈においては、因果関係の哲学やヒュームの研究で知られるヘレン・ビービー(Helen Beebee)によると、そもそも “the problem of justification of induction” を「ヒュームの問題」と呼ぶこと自体が不適切だ言われています。

What does all this have to do with Hume? Well, it is undeniable that the main elements of the problem of induction are all to be found in Hume’s discussion of reasoning concerning matters of fact in both the Treatise (T 86.94) and the Enquiry (E 25.39). But to characterize Hume as presenting roughly the argument just sketched is to misunderstand what he is doing in two important respects.

[Beebee,2006:38]

なお、上記で語られている(そして “Hume's problem” と称する議論の多くが無視している)"two important respects” は、ビービーによると次の諸点です。第一に、ヒュームの議論には因果関係が関わっており、彼は「帰納的」な推論の正当化について議論してはいません。そして第二に、ヒュームは或ることがらについての信念をどうやって正当化するのかという問いを論じていたのではなく、寧ろ我々がそのような信念をもつようになるのは何故なのかという問いを論じているのだというわけです。もちろん、科学哲学で議論している場合には古典解釈としての正しさを求めているわけではないということを研究者の多くは承知しているでしょう(実際に読めば分かるように、ヒュームは Treatise で二回ほど “induction” という言葉を使っているだけで、Enquiry では全く使っていません)。したがって、この問題に「ヒューム」の名前を使うことが何か重大な帰結をもたらすのであれば、科学哲学者の大多数は喜んで「ヒューム」という言葉を捨て去るでしょう。なぜなら、それによって彼らの議論が失うものは単なるラベルでしかないからです。もちろん、これを「歴史の軽視」と呼べるかも知れませんし、それゆえ間違った議論をしていたのだと言えるならば、歴史的再構成による有効な批判の一つと評価できるでしょう。しかし、いまのところ歴史的再構成による有効な批判はない(あったらあったで、さきほど述べたようにラベルを捨て去るのはたやすく、そしてラベルを捨て去った議論の内容がそれ自体で間違っているかどうかは、歴史的な正確さとは何の関係もない)というのが僕の所見です。

このように、「ヒュームの問題」という表現は、必ずしも専門用語として使われているとは限りませんが、科学哲学においては(使い方が適切であるかどうかはともかくとして)一定の意味合いを持っています。したがって、伊勢田さんが「つっこみその5」で「ヒュームの問題といえば、どちらかといえば帰納の問題の方を指すことが多いのではないか。因果の問題はヒュームにとっては帰納の問題の一部として考えられていたはずである」と述べているのは、面倒な仕方で説明すれば以上のような事情を指していると思われます。

もちろん、どのような意味合いでもよいと言いたいわけではなく、「間違った用法」や「意味の分からない用法」もあるでしょう。例えば、ケヴィン・ケリーという研究者の或る論文(Kevin T. Kelly, “The Logic of Success,” in Philosophy of Science Today, edited by Peter Clark and Katherine Hawley, Oxford University Press, 2000, pp.11-38)にも “Hume's problem” という言葉は使われていますが、どういう意味合いなのか説明されておらず、読み方によっては underdetermination のことを「ヒュームの問題」として語っているように思えます。このような、論旨の分からない意味合いで “Hume's problem” と表現する事例は斥けるべきです。

ヒュームによる原因の定義

次に、津田さんはヒュームによる「原因」という概念の定義を紹介しようとしています。僕も学部時代にヒュームの見解を取り上げたことがあるので、18世紀の同時代から近年に至る膨大な研究に圧倒されたり、ちょうど20年前に書いたプライベートな論文(僕が卒業した法学部には卒論という制度がなかったので、関西大学の博士課程前期課程を受験した時に、「ヒュームの関係概念」という論文を個人的に指導教授へ提出しました)では、冒頭でヒューム研究者の言葉を引いて「解釈が乱立している」とも書きました。ヒュームによる「原因」という概念の定義を津田さんが一つしか紹介していない時点で、既に古典の解説としては(何か説明したうえで「一つだけでよい」と主張しているならまだしも)高校の倫理と変わらないレベルに単純化していると言えます。なぜなら、ヒュームの解釈が難しいと言われる理由の一つは、TreatiseEnquiry で述べられている二つの定義をどう扱うかが難しいからなのです。どちらか一方を優先させる見解もありますし、両立させようとする見解もありますが、少なくとも因果関係についてヒュームが何を主張したかという著作を書こうとする研究者が Enquiry の方で述べられた一節だけをヒュームの見解として選ぶ場合には、何らかの理由を必要とします。もちろん『医学と仮説』はヒュームの研究書ではありませんから、複雑な議論を展開するのは逸脱と言えるでしょう。したがって、明記されていないにしても、何らかの見識を前提にしている限り、Enquiry で論じられた原因の概念をヒュームの見解として紹介することに、とりたてて問題があるわけではありません。

われわれは原因を、ある別のものがそれに随伴するところの事象と定義しよう。ここでは一番目に起こる事象のすべてに二番目の事象が随伴する。言い換えれば、それが起こらなければ二番目の事象が決して起こらなかったところの一番目のもの、これが原因である。

[津田,2011:81]

ここは、An Enquiry Concerning Human Understanding の以下の箇所に相当します。

Suitably to this experience, therefore, we may define a cause to be an object, followed by another, and where all the objects similar to the first are followed by objects similar to the second. Or in other words where, if the first object had not been, the second never had existed.

[Hume,1748:60]

津田さんが参考として挙げている既存の訳本は参照していないのですが(なぜか最近になって続々と出版されているヒュームの訳本は、どれも高額なので参照しづらいのです。ちなみに、或る評者は「とんでもない代物」と書いていますが、法政大学出版局から出ている木曾さんらの訳書は一般読者向けではなく、ヒュームの研究者向けとして扱う方がよいでしょう)、どのみち引用部分は津田さん自身の翻訳だと書かれているので無視してもよいでしょう。そこで、まずは翻訳として正しいかどうかを検討してみます。すると、まず “object” を「事象」と訳したり、伊勢田さんが指摘しているように “similar to the first” の箇所を省いたりしていて、ヒュームが論じている文脈からは(もちろん歴史的再構成という観点から見て)切り離された翻訳であることが分かります。なお、伊勢田さんは “similar to the first,” “similar to the second” の箇所を津田さんが省略したことについて、「『似た』という言葉が含意する、雑多な集合というイメージ」が含まれないようにしたのではないかと説明しています。

そこで、まず「似た」という言葉の意味合いを、僕がヒュームの見解を理解した限りで再構成してみましょう(読者に「雑多な集合というイメージ」を与えるかもしれないという伊勢田さんの指摘に異義を唱えようとしているわけではありません)。ここで「一つめの対象に似た」とヒュームが(ちゃんと原文では)書いているのは、上記の原文の引用で冒頭に書かれている “this experience”、つまり上記の少し前に書かれている “Similar objects are always conjoined with similar” という経験(これはヒュームの「主張」を表しているのではなく、自分を含めて人はこういう経験をするものだという「報告」でしょう)のことであり、「似た」という表現が使われているのは、その対象が「雑多な集合」の一つとして外延的に特定しうるからではなく、まさに「似ている」ということを見て取る能力(human nature)が、連合原理の一つである「類似」だからだと思います。津田さんがヒュームの著作について実際に古典解釈の問題としてどのような見解を採用しているのかは、津田さんの翻訳と説明によってしか理解できません。すると、津田さんの「一番目に起こる事象」という表現に「一番目のもの(relata)に似た事象が起きた」という観察の経緯を読み取ることは可能なので(そして、このように自己参照的な表現として読解しうるからこそ、ヒュームの解釈は難しい)、翻訳としては不正確であるにしても、津田さんが理解したヒュームの見解から「これこれは一番目のものに『似ている』」という、類似に訴える観念連合のプロセスが抜け落ちているとまでは言えないと思います。(ただし、「抜け落ちている」可能性も残るので、これは後述の展開によってしか判断できないでしょう。)

このようにヒュームの著作には、ヒュームが「人間はこれこれしかじかと推論するものだ」という観察を報告している箇所と、それをヒューム自身の見解によって再構成している箇所が入り乱れており、これが解釈の難しさの一因となっています。しかも、観察と言ってもヒュームが自分自身について観察している場合には、それが自分の経験の再構成なのか、それとも straightfoward な報告なのかがはっきりしないという問題があるわけです。したがって、こうは書いているが、実はこれは表面的な観察を報告しているだけで、ヒュームはその背後に別のことがらを読み取っているはずだと理解して、ヒュームを “causal realist” だと考えるギャラン・ストローソンのような研究者もいれば [Strawson,1989]、いや、自分自身の観察を再構成した場合にも、その再構成そのものが一つの経験なのであって、その背後にある仕組みも彼にとっては観念として考えざるをえないと解釈する一ノ瀬正樹さんのような研究者もいますし [一ノ瀬,2001:27-34]、さらには、ヒュームはそもそも「整合性に無頓着」なのであって「或る問題を考えるのに疲れてくると、それに歯形をつけたまま放り投げて別の問題へと移ってしまい、そしてまた悩み出すのである」と手厳しく評するジョン・パスモアのような研究者もいます [Passmore,1952:87f.]。

もし、『人間本性論』であれ『医学と仮説』であれ、ものを書いている本人がこうした多くの解釈の余地を残すかもしれないというリスク感覚をもっていなかったとすれば、もしかすると我々はパスモアが言うように支離滅裂なだけの文章に無理やり整合性や「著者の全体像」を歴史的に再構成しようとしているだけなのかもしれません。しかし僕は、そうした歴史的再構成において、「書かれたもの」へ整合性や全体像といった理念を当てはめてみて内容の当否を議論するケーススタディを、「リサーチ・プログラム」として有意義であると考えています。更に、歴史的再構成として議論されているわけではないという保留を置けば、自分たちが必要とする文脈に古典を置き直して合理的に再構成するケーススタディも、一つのリサーチ・プログラムとして有効だと考えます。いずれにせよ、哲学研究者としての我々の本務は、どちらにせよ再構成すること自体や再構成の是非を決めることではないと思います。そうした再構成は、どこまで行こうともしょせんは「他人が書いたこと、語ったこと」をベースにした議論でしかなく、その議論のベースが間違っていれば、何百年と続けたところで暗闇に向かって車のアクセルを踏み込むようなものでしかありません。確かに、古典やその読解という成果から学ばずに自力で考察を進められると思い込むのは(自分がウィトゲンシュタインにでもなったつもりの)素人にありがちな傲慢でしかなく、たいていは暗闇どころか自分で目隠しをしたまま車でどこかへ突っ込むようなものですが、目隠しをしていなくても「他人の車に乗り続ける」ことを何とも思っていないような人々から「哲学者」として学ぶべきことがあるのかどうか、問うてもよいはずです。

さて、津田さんはヒュームの定義を紹介したあとに、次のように論じています。

すなわち「原因がなければ結果がない」場合にのみ、原因と結果と見なしうると言う。ところが少し考えると、この条件文は実際には検証できない。なぜなら一番目の事象は現実には起こってしまっているからだ。つまり、現実に起こってしまったものが起こらなかった場合など、「現実的にはあり得ない」からだ。これを哲学用語では反事実と言う。

[津田,2011:81]

[continued] ここまでで中断しています。ここから僕が専門に研究していた確率的因果関係の話も出てくるわけですが、俗書の内容を哲学の議論として展開し直す意義をあまり感じられなくなっているため、休止します。悪しからずご了承下さい。本書を思考の糧にする医学生や哲学科の学生など皆無だと思うので、専門の知見でどう論評してもしなくても、後世への影響は人が観測しうる範囲の誤差にもならないでしょう。よって、元科学哲学のプロパーとして「どうにかしておかないと、酷い影響が出るかもしれない」という不安は殆どなくなりました。

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津田敏秀『医学的根拠とは何か』, 岩波書店(岩波新書), 2013.
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津田敏秀「統計学は科学の文法である 水俣から福島まで、なぜ公害は繰り返されるのか」『現代思想』, Vol.42-9 (June 2014), pp.122-132.
Wacholder (2011)
Sholom Wacholder, “On Standards of Evidence,” Epidemiology, Vol. 22, No. 4 (July 2011), 464-466.

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